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募る日本の主要メディアへの不信感

 情報化以前、つまりインターネット登場以前から存在するメディアを、1900年代からあるという意味で「1900メディア」とか、旧来の/時代遅れのというニュアンスを込めて「レガシーメディア」と呼んだりするが、同義語の中で最も有力なのは「オールドメディア」という表現だ(Old media - Wikipedia)。オールドという表現にネガティブな印象を持つ人もいるかもしれないが、オールディーズなどと言えば古き良きのようなニュアンスもあり、歴史あるというニュアンスにも受け取れる。


 所謂オールドメディアとは、新聞や本などの出版物、映画/音楽などの制作物、ラジオやテレビの放送、場合によって広告(代理店)もオールドメディアに分類される。報道分野で言えば、オールドメディアとは主に新聞/ラジオ/テレビを指す。中でも近代以前からの歴史を持つ新聞は、まさに「オールドメディアの代表格」と言える存在だ。
 昨今、オールドメディアである新聞やテレビは、終わってるコンテンツという意味で「オワコン」と呼ばれ揶揄されたりもするが、特に新聞に関して言えば、決してそんなことはない。 

 確かに昨今のテレビ、特に日本のテレビ報道は国家権力への忖度が激しく、ほんの一部の番組を除いてオワコン状態で、報道以外のテレビ関係者も、同じ会社/業界で同じ看板を背負っているにも関わらず、積極的にそんな傾向を批判する様子もなく、つまり企業や業界としての自浄作用が全くと言っていい程働いておらず、そして日本の民放は主にNHKと在京キー局を頂点とするピラミッド構造にある為、テレビ業界全体が、少なくとも報道に関してオワコン化している、と自分も感じている。
 しかし新聞はと言うと、確かに発行部数は減り衰退傾向にあるものの、テレビやWebメディアに記事等を供給する立場にあり、従来のニュースを配信する通信社のような役割を担っている。つまり新聞がなくなればニューメディアと呼ばれるWeb界隈のメディアの多くは情報ソースを失うことになる。そんな視点で見れば、オールドメディアではあるが、情報ソースを新聞などに頼っていて、しかも報道内容も誠実とは言い難いテレビと横並びにオワコン扱いできるような状態には新聞はない、と言えるだろう。

 しかし新聞が立場的にオワコンと言える状態ではないことと、報道機関として誠実と言えるかどうかは別の問題だ。日本の大新聞には読売/朝日/毎日/産経/日経がある。中日/東京新聞は準大新聞と言ったポジションだろうか。あくまで個人的な感覚ではあるが、読売新聞や産経新聞はNHKや民放局と同様に権力への忖度傾向が激しく、決して誠実な報道機関とは言い難いと考えている。自称保守に標的にされることが最も多く、世間一般ではリベラルの雄のように言われている朝日新聞だが、決してそんな側面だけが強いわけではなく、政権忖度記事もあれば、整合性を欠いていると感じる政権批判記事などもあり、読売や産経に比べればはるかにマシだが、個人的にはあまり好感は持ってはいない。
 それらの中間のように認識されているのが毎日と日経だが、日経は経済界との距離が近く、今の政権と経済界には癒着の傾向があり、日経は準読売のような姿勢の報道が多いように思う。そんな風に消去法で考えていくと、今日本の大新聞で最もまともなのは毎日なのかもしれない。

 毎日は、以前は政府の姿勢を批判するでも容認称賛するでもなくという傾向の、「○○しました/言いました」とだけ書いた記事/報道が多かったが、昨年下半期あたりから、政府に批判的な報道が増えた、という評価をよく目にした。そんな話を聞いたことをきっかけに、昨年・2020年12月から毎日新聞の公式ツイッターアカウントをフォローしてみた。
 約1か月毎日新聞のアカウントをフォローしてみて感じたのは、世間一般的には毎日新聞は比較的まともだと言われているが、全然マシじゃない。NHKと大差なく「たまにまともなことも言う」程度でしかない、という感覚だった。以前は、それなりに裕福な者か報道関係者でもなければ、各新聞を読み比べることのハードルは高かった。勤める会社が複数の新聞を購読しているとか、毎日のように図書館に足を運ぶ余裕があるとか、そんなことが出来るのは一部に限られていた。しかし今やどの新聞も公式SNSアカウントを持っており、それをフォローすれば、新聞各社がどのような記事を推してくるのかを、金銭的コストをかけずに知ることが出来る。それを実践してみた結果、世間一般ではまともとされている毎日新聞でこのレベルか…ということが分かった。
 つまり、個人的な感覚で言えば、日本の大新聞は、結局テレビ各社と同様に全滅状態だ。報道分野のオールドメディアの代表格である新聞とテレビが全滅状態ということは、先ほどは否定したものの、新聞もテレビと同様にオワコンであると言えるのかもしれない。

 しかも前述したように、現在も日本で報道の根幹にあるのは新聞だ。根幹が全滅状態だから、それに頼りきっているテレビも全滅状態というのが実情なのかもしれない。昨日の投稿で官邸等中央省庁の記者クラブの異様さについて書いたが、主要メディアが壊滅的なのだから、そうなるべくしてなっている、と言えそうだ。

 個人的に、今最後の希望は中日/東京新聞だ。東京新聞のツイッターアカウントも毎日新聞と同時にフォローし始めたのだが、毎日新聞よりもかなりマシだ。勿論、中には???と感じる記事もありはするものの、自分の感覚と完全に一致する報道機関というのはあり得ない。もし東京新聞(や西日本新聞などの地方紙)までもが政権忖度に染まりだしたら、その時はいよいよで、最早手遅れと言っても過言ではないだろう。
 主要メディアがどこも信用ならない状況というのは、まさに中国と何も変わらない。日本が香港のようなことになるかもしれない、という危機感を持っている人は、日本人にはまだあまりいないだろうが、今のまま何もせずに無頓着でいたら、10年後には確実に手遅れ状態になってしまうだろう。

 トップ画像は、Wolfgang EckertによるPixabayからの画像 を加工して使用した。

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