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日中政府それぞれの常套句

 中国の習近平国家主席は1/25に、オンラインで開かれた国際会議で講演の中で、「各国は異なる歴史と文化、社会制度を持っている。違いを尊重し、内政干渉をやめるべきだ」と述べたそうだ。この発言の背景には、新疆ウイグルや香港への弾圧に対する注目や批判の声が、国際的に高まっていることがある(習近平・中国主席「新冷戦は世界を分断」 バイデン政権けん制「内政干渉やめるべきだ」:東京新聞 TOKYO Web)。


 この「内政干渉をやめろ」は、中国共産党政権の論点ずらしの常套句で、国際的に都合の悪い批判に晒される度に中国当局はそう反論する。ウイグルやチベット・香港や台湾など、中国本土の支配を望まない地域に対して独善的な行為を繰り返す自分達のやっていることを棚に上げて。
 日本にも、外国籍の人が日本の社会や政治などに対して苦言を呈すると、「日本のことは日本人が決めるから外国人は黙ってろ」のようなことを言う人がいる。たとえ日本国籍でなくとも、社会や政治に理不尽があれば苦言を呈するのは当然だし、その社会で生活していれば改善を求めるは尚更当然だ。家庭内暴力の加害者が「うちのことはうちで決めるから外野は黙ってろ」と言うのと何が違うだろうか。中国当局の言う「内政干渉だ」もその類である。

 日本の自民政権にも、都合の悪いことから逃れようとする際の常套句がある。それは

 仮定の質問には答えない

だ。前首相の安倍、そしてその政権で官房長官を務め、今首相になっている菅も頻繁にこう言って質問に対する答弁を逃れてきた。菅は1/8に出演したテレビ朝日・報道ステーションのインタビューの中で、「(緊急事態宣言を)1カ月やってみて、結果が今一つ出なかったら対象拡大ですとか、延長した時にもうちょっと厳しくなっていくとか、そういうこともあるんですか?」と問われ、

まああの、仮定のことは考えないですね

と答えてもいる。たった1カ月先のことすら「考えない」と公然と言ってのける者が、今この国の首相の座にある。そんなのは狂気でしかない。たった1カ月先のことすら考えない者が、深刻を極める疫病対策に関して重大な決定権を持っている。

 しかし、菅の言う「仮定の質問には答えない」「仮定のことは考えない」なんてのは全くの嘘である。何故なら、菅は昨日・1/25の衆院予算委員会での補正予算案に関する審議の中で、感染拡大に繋がる恐れを指摘されながら自民政権が強行し、昨年・2020年11月にこれまでで最大の感染拡大が現実になっても非を認めずに続けたが、年末にやっと年末年始限定での停止を決めたものの、当然再開などできるわけもなく今に至っている狂気の旅行・Gotoキャンペーンに関して、1兆円もの補正予算を計上していることについて、「いつ再開できるかも分からないキャンペーンに多額の予算を割くのではなく、もっと緊急性のあることに予算をまわすべきだ」という趣旨の野党側の主張に対して、

しかるべき時期の事業再開に備えて計上している

と答え、計上した予算の妥当性を主張した(首相、Goto予算1兆円の撤回を拒む 「再開に備え」:朝日新聞デジタル)。
 ここで審議しているのは今年度の補正予算であり、つまり2021年3月までの予算の補正を議論している。つまり菅は2021年3月までにGotoキャンペーンを再開できる状況になるという仮定の下でそう主張しているわけだ。菅はキャンペーンを再開できるという仮定のことを考えているのである。
 政治家が「仮定のことは考えない」なんて言っていることがそもそも支離滅裂なわけだが、物凄く大甘な目で見たとして、本当に菅が仮定のことは考えていないのだとしたら、Gotoキャンペーンが停止されている現在、再開できることを念頭に置いた予算を組むのではなく、停止された現状を重視した予算を組むのが筋だろう。そういう意味でも言っていることが矛盾しており、最早支離滅裂なんて言葉では到底足りないレベルなのが今の自民政権だ。

漫画家のぼうご なつこさんが、こんな漫画を昨日掲載した。日本のコロナ危機をどうにかするには、できる限り早期の解散総選挙が必要だ。2021年10/21の任期満了を待つほど余裕はない


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