スキップしてメイン コンテンツに移動
 

時短ビデオ登場から30年、今や早送り再生が当たり前に

 音楽メディアと言えば、1980年代中盤まではレコードで、それから2000年代まではCD、そしてそれ以降は物理メディアとしてCDは残っているものの、物理メディアに縛られないデジタルデータ配信が主流になった。ただ面白いのは、2020年1-6月期のレコードの売上高が、1980年代以降で初めてCDを上回ったそうだ(米レコード販売がCD抜く 20年1~6月、1980年代以来初: 日本経済新聞)。


 映像メディアと言えば、1990年代中盤まではVHS(ビデオテープ)、それ以降は2010年頃まではDVD、その後はBlu-layディスクも登場したが、音楽同様に物理メディアに縛られないデジタルデータでの配信が、今は主流になっている。
 映像メディアがビデオテープだった頃、音楽にもカセットテープというテープメディアがあった。カセットテープは1995年頃以降MDやCD-Rにとって代わられたが、ここ数年は、レコード同様に再び生産が上向いているらしい。
 テープメディアが主流の頃、早送りの反対は「巻戻し」だった。テープを巻いて戻すから巻戻しであり、CDはコンポでもラジカセでも大抵カセットデッキと一緒だったので、日本語表記はやはり巻戻しが多かった。しかし巻くものがなくなったDVDの登場以降、巻戻しは徐々に「早戻し」になっていった。カセットデッキのないCDプレイヤーも早戻し表記になっている。


  早送り/巻戻しに関連したこの投稿の導入を思いついたのは、

 「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来(稲田 豊史) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)

という記事を読んだからだ。見出しの「恐ろしい未来」は煽り過ぎだと思うものの、なかなか興味深い内容だった。最近は映像コンテンツを倍速再生や5/10秒送り機能を駆使して端折って見る人が増えている、という話である。確かにどの映像配信サービスにも、音声も充分に聞き取れるように細工された1.25-1.5倍速程度での再生機能が備わっているし、ダブルタップで5-10秒程度タイムラインを飛ばせる機能もある。
 その類の機能の歴史は意外に古く、1990年代初頭には、既に時短ビデオ/プレイなる機能を備えたVHSデッキが販売されていた。再生速度を変えると音声のピッチが変わってしまい聞き取り難くなるが、音声と映像の再生速度を別々に可変させ、無音声部をはしょることによって音声と映像の辻褄を合わせる、みたいな機能だった。だから無音声部が少ないと一部音声が欠落することもあるが、それでも雑誌や新聞を流し読みする程度には内容を理解することができた。但し自分の周りでは、あまり使っている人は見かけなかった。
 因みに最近の倍速再生機能は、DJソフトなどで言うマスターテンポ機能のように、再生速度を変えても音声のピッチを維持する機能が用いられており、早口にはなるものの変な声にはならないし、音声と映像もズレないし音声が欠落することもない。
 ○○秒飛ばし機能も、映像データの記録方法がデジタル化して以降、標準的に備わる再生機能になっている。レコーダーではCM飛ばしを目的とした機能だったように思う。

 当該記事では、若者にとっては倍速再生での映像コンテンツ鑑賞が当たり前になっている、という体裁で書かれているが、録画メディアの主流がVHSからHDDになった頃(00年代中盤以降)から、90年代の時短とは異なるマスターテンポを用いた倍速再生が可能になっており、そして録画できる量もビデオテープとは雲泥の差になったこともあって、VHSネイティブ世代でも、「ちゃんと見たい番組以外は基本倍速再生で見てる」という人は、決して少なくなかった。テレビ好きな人程、録画しても等速再生では消化しきれずにそうなっていた。確かに若い人程倍速/飛ばし再生に抵抗はない傾向にあるのだろうが、決して若い人に限った傾向ではないだろう。


 音楽を聴く時に、倍速再生/飛ばし再生で聴く人は殆どいない。そんな聞き方で満足できる人は珍しい。ただ「贔屓にしているアーティストはアルバムで買うけど、そうではないアーティスの場合はアルバム全曲は買わずに目当ての曲だけを聞く」という聞き方をする人は結構多い。というか、CDが主流だった頃はアルバムを買うか借りるかしないと、シングルになってない曲は手に入らなかったので、買うか借りるかしたら、取り敢えず全曲耳を通すという人の方が多かったろうが、ダウンロード販売やストリーミングが主流になってからは、1曲単位で買うことや聞くことのハードルが下がったので、寧ろそんな人の方が多い。学校の音楽の授業でも、所謂クラシック音楽の大規模な楽曲の中から、一部だけを取り上げることはよくある。

 流石に音楽を倍速再生で聴いて満足する人はいなくても、部分的に聞ければいいという人は決して少なくない。また、音楽ではなく音声のコンテンツ、つまりラジオ番組や朗読音声などなら、倍速再生で聴いても満足できる人の割合は、映像コンテンツに近い割合になるのではないか。


 自分は映画に限らずテレビ番組でも、そして個人が作るYoutube動画でも、基本的に等速再生で見る。延々作業が続く長い動画などは、作業シーンだけ倍速再生/シークバーで映像を確認しつつ作業部分を飛ばして完成シーンだけを見るなんてこともあるが、そんな鑑賞の仕方は例外的で、基本的には等速再生で見るか、動画自体を見ないかの2択だ。倍速再生で見るのは気が引ける。
 しかし自分にも、コンテンツの量が多すぎて消費しきれずに、鑑賞がいい加減になるケースがあった。自分にはオタク/コレクター気質があって、好きなアーティスト、というか気になったアーティストレベルでも、兎に角過去の作品を全部一度聞いてみたいと思うたちだ。しかし大学生の頃、どんなCDでも大抵置いてあった神保町のレンタル店・ジャニス(惜しまれつつ2018年にレンタル営業終了)の存在をまだ知らず、自分の好みのダンスミュージックやインディーズ系パンクは普通のCDレンタル店には殆どなかった。流石に新品で揃えることはできないから、中古のレコード/CDを買いあさっていた。毎月給料日のバイト終わりにはレコード屋に直行し、20-30枚程度のレコードとCDを買っていた。
 全く聞かずに積みあげるだけ、ということはなかったが、次の月にはまた新しいレコードやCDが増えるので、全てをしっかりと鑑賞出来ていたかと言えば、決して出来ていなかった。特にレコードは家でしか聞けなかったので鑑賞がおざなりになりがちだった。パソコンを買ってからは聞きやすいようにデジタルデータ化をしたが、データ化しただけで満足することも多かった。

 
 そんな当時の自分と同様に、限りあるキャパシティーに対して過剰に供給されるコンテンツを、どうにかして少しでも多く消費しようと、倍速再生/飛ばし再生で映像コンテンツを鑑賞する人が増えたのだろう。しかし、それでは結局本末転倒な気もする。

 人間が一生に口にすることのできる食事の回数、食べられる量には限度がある。食にあまり興味のない人にとっては、口に入れば何でも同じかもしれない。しかし、1日に食べられるのは3食だけなのに、その内の1回を、望んでもいない美味くもないインスタント食品で消費してしまうのは勿体ない、という感覚は、食に興味のない人でも理解できるだろう。
 人間が死ぬまでに過ごす時間は間違いなく有限である。倍速再生や飛ばし再生で消費するコンテンツの量を増やす、言い換えれば、それ程重要でもないコンテンツの消費に限りある時間を割くのは、果たして有意義だろうか。勿論「質よりも量が重要だ」という考え方も、「目を通さなければ重要か否か判断できない」という考え方もあるだろう。しかし自分は、製作者が意図していない再生速度で映像コンテンツを鑑賞しても、その本質には触れられないと感じる。映画やドラマ・アニメのような映像コンテンツは特に。続編を見る際の前に前作を確認するなど、2度目以降の鑑賞ならその限りではないかもしれないが。

 

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。