日本語の「合理性」や「合理的」には、2つのニュアンスがある。1つは整合性と同じ様に、道理や論理的に筋道が通っていること示す場合に用いられる合理性、もう1つは生産性や能率的と同じ様に、無駄がない・効率がよいことを示す合理性だ(合理的とは - コトバンク)。前者の追求は基本的に概ね正しいが、後者はその追求が常に正しいとは限らない。
そう思ったのは、久しぶりにWindowsを再インストールして、クッキーや検索履歴が反映されていないまっさらな状態のブラウザでログインせずにYoutubeを使ってみて、ホーム画面にプッシュされてくる動画や、動画再生時に挿入されるCMが、普段自分が見ているものと大きく違っていたからだ。
Youtubeに限らず、検索結果やWeb環境下で表示される広告は、検索履歴や訪れたWebサイトなどから好みが予測され、それぞれの利用者に響くようなものがチョイスされて表示されている。それは利用者が検索にかける手間を省くという意味や、利用者の興味にあった広告を個別に表示するという意味で、合理性・効率の追求である。
しかしその弊害は確実にある。その種の合理性追求によって、個人がWebを通して見る世界はそれぞれ確実に違う。自分の見たいものばかりが目の前に並べられ、しかもそれが世界の全てかのように見えてしまう。見えるものに偏りがあれば認識も偏る恐れが生じるし、そんな合理性が追求されていなければ出会っていたかもしれないものと遭遇する機会も減る。
つまり、合理性・効率の追求は必ずしも正しいとは限らない。世界的にも有名な トヨタ生産方式 - Wikipedia では、7つのムダを無くすことが重要とされており、またムリムラムダの排除を是ともしていて、利潤追求・利益の最大化を目的とした場合は、合理性・効率の追求は概ね正しいだろうが、利潤追求や利益最大化は何にも絶対的に優先されるべき概念ではない。
冒頭で示したように、実際には効率性や整合性に言い換えられる場合もあるので、該当する英単語は複数あるのだが、「合理性」という字面で英語に翻訳した場合、大抵 rationality が第一にあてられている 合理性 - Wikipedia に対応する英語版のページも Rationality - Wikipedia だ。
この rationality の元になっているのは ration という単語で、「配給(主に食料の)」を意味する。英語版Wikipediaにて ration で検索すると Rationing - Wikipedia にリダイレクトされ、それに対応する日本語版は 配給 (物資) - Wikipedia だ。しかし日本語版Wikipediaで、カタカナで「レーション」と検索すると出てくるページは、それとは別の レーション - Wikipedia というページだ。日本語でレーションと言った場合、軍隊において行動中、各兵員に配給されるコンバット・レーション(combat ration)を指すことが多く、このペースではそれについて言及している。
レーションでGoogle検索した際に、2つ目の絞り込みワードとしてまず提案されるのが「まずい」だ。アメリカ軍のレーション・MRE のWikipediaページには、MRE#味の不味さ という項目がある。そこには次のように書かれている。
- 初期の MRE は、保存性のみを重視し、味が極端に悪かったため、支給された兵士からは不評だった
- メーカーや製造時期によっても差が見られるものの、依然として他国軍隊のレーションと比較すると「まずい」と酷評されている
どちらの逸話も出典はないが、米軍に限らず「レーションはまずい」という話はしばしば見かける。また真偽は定かでないが、美味しいと兵士が必要以上に食べてしまうのでわざと味を良くしない、という話もあったりする。
レーションに限らず、病院の食事も大抵味がよくないと言われる。それは味よりもまず栄養と生産性を重視している場合が多いからだろう。最近は自治体によってはかなり改善しているようだが、学校給食も以前は味は二の次になっているという評価が多かったし、中学で学校給食を導入していない横浜市が、それをカバーする為に企画実施したハマ弁も、まずいという評価が多かった。
ハマ弁の場合は、味よりもコスト、つまり業者の利益などが優先された結果、若しくは政治家らが利害関係者と自分の利益を追求した結果という懸念もある。
料理で味を追求し、コストを味に割くことは、充分な栄養補給、経済性的な面から見れば合理性が低い。言い換えれば味を追求することは非合理的とも言える。健康的な食事だけを追求すれば、プロテインやカロリーメイトのようなものだけを食べる方が効率的かもしれない。しかし大抵の人はそんな食生活には耐えられないだろう。肉体的な健康は得られても精神的な健康は得られないだろう。
料理や食事は、合理性の追求が常に正しいとは限らないことを示す、最も分かりやすい例の一つだ。
更に、合理性の追求が常に正しいとは言えない理由が、合理主義 - Wikipedia にも示されている。同ページには、合理主義の説明の1つとして次の様にも書かれている。
特定の原理・原則・基準・理屈に適合するものだけを認識・許容・受容する態度。排他主義
記事の冒頭で示したWeb関連の話は、まさにこれと同じ種類の話だ。
勿論全てに問題があるわけではないものの、合理性の追求にあまりにも取りつかれてしまうと、多様性を否定することにも繋がりかねない。人間の社会、いやそれに限らず世界全体には、ある程度のムダとムラが必要だ。
バブル後の日本ではリストラ(リストラクチャリング/再構築)の名目で、合理化という名の人員整理があちこちでなされたが、それによって果たして日本は幸福な国になっただろうか。コロナ危機によって、ある自治体でムダだと大幅に減らされた保健所が、実際には必要なものだったことが誰の目にも明らかになった。ムダと言われているもの/ことが本当にムダなのかはよく考えるべきだ。
大手外食産業や食品では、いつでもどこでも同じ味が提供されるムラのなさが良しとされるが、毎回味が微妙に変わること、つまりムラが家庭料理の魅力であり、そのムラが新しい味を生むことだってある。
トップ画像は、Niek VerlaanによるPixabayからの画像 を加工して使用した。