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No gender equality in Japan

 昨日の投稿を書いた後に、取り上げた報道ステーションCMのURLをクリックしたら、投稿を書いている間に削除されていた。今回は削除した旨の釈明・謝罪が出されていたが、昨今大手メディアも、記事内容や見出しの表現を批判されると、訂正した旨も示さずにシレっと書き換えたり削除したりする。当該CMは削除が事前に予想できたので、昨日の投稿にはアーカイブを残しておいた。


 当該CM削除後に、テレビ朝日が示した謝罪文を見て「あ、こいつら「何が悪いんだよ」って思ってんだろうな」と強く感じた。なにせSNSへ謝罪文を投稿しただけで、番組Webサイトのトップページには、その件に関する記述やリンクは何もなかった。

このSNS投稿も短期間で削除されるかもしれない。だからハフポストの記事「『報ステ』がCM動画を削除して謝罪。「ジェンダー平等を掲げるのは時代遅れ」の表現に批判集中(声明全文) | ハフポスト」も紹介しておく。

 謝罪文によると、報道ステーション/テレビ朝日は当該CMによって、

ジェンダーの問題については、世界的に見ても立ち遅れが指摘される中、議論を超えて実践していく時代にあるという考えをお伝えしようとした

のだそうだ。だが「その意図をきちんとお伝えすることができませんでした」と釈明している。

 動画による表現のプロなのに、そして「報道」の名を冠した番組のCMなのに、この内容でその趣旨が伝わると思っているなら相当レベルが低い、としか言いようがない。そして、昨今不適切表現を批判された政治家や企業などの決まり文句

不快な思いをされた方がいらしたことを重く受け止め、お詫びするとともに、このWebCMは取り下げさせていただきます

も酷い。文脈から考えれば「私たちの表現は決して不適切ではないが、その意図を汲めずに勝手に不快になった人もいるようだから、謝って撤回してやる」のようにも読める。
 そう指摘してもまた、「そんな意図はない」と言うのだろうが、だったらそんな風にも読める文で謝罪するのがおかしい。意図が伝わらなかったCMの謝罪で、また意図が伝わらない表現を使ったのだとしたら、文章や映像などで表現をする資質に著しく欠けていると言わざるを得ない。
 例えばこれがアートの分野における表現であれば、「意図が伝わらなかった」で済む話かもしれないが、報道の分野における表現なのだから、それで済むような話ではない。


 そんなテレビ朝日のどうしようもない釈明を見て、このCMが大半の人の目にどう映ったのかを可視化しようと考えた。それを表現する為にこんな映像を作った。

No gender equality in Japan - YouTube

 この動画を編集しながら、出演している女性も批判に晒されている、とどこかで読んだことを思いだした。彼女への批判や中傷を実際に確認したわけではなく、どこかで(多分ツイッターで)そんな話を目にした程度なので真偽は定かでない。彼女に関する情報もざっと検索した限りではよく分からない。
 この動画では全編に渡って当該CMのセリフをサンプリングして使い、前半40秒は彼女が喋っている映像もコラージュしているので、あたかも彼女が「ジェンダー平等なんて時代遅れ」と言っているように見えてしまうかもしれない、演出にそって演じただけなのにそんな印象を煽ってしまうかもしれない、とも思いながら動画を作った。

 名前もよく分からないということは、エキストラや駆け出しの俳優なのだろうから、仕事を選べるような立場ではないのだろうと推測する。それがキー局のプライム帯で長く続く番組のCMに起用されることになれば、もし自分がその立場だったら、内容に違和感を覚えたとして断ることができるだろうか。 それ以前に、CMの全体像を知らされず、もしくは撮影時に用いた台本では「ジェンダー平等なんて時代遅れ」と言っているようには見えない演出だったのに、撮影後編集であんな映像にされた恐れもある。
 彼女がもし未成年だったとしたら責任なんて問うべきじゃないし、成人済みだとしても彼女に責任を負わせるのは、状況から判断して酷だ。だがしかし、彼女がこのCMに出演して当該の役を演じたことは、どんなに貧困に追い込まれていたとしても、詐欺を働いて人を騙せば責任を問われることになるのと同じで、決してなかったことには出来ない。つまり、責任の大半はテレビ朝日ら制作側にあるが、無理矢理出演されたなどの事情がないならば、彼女も全く責任がないとはならないだろう。
 だから、自分が作った動画によって、あたかも彼女が「ジェンダー平等なんて時代遅れ」と言っているように見えてしまったとしても、著しく不適切な表現とは、自分は考えていない。


 因みに、使った元のトラックは Prodigy - Narayan のリミックスだが、Narayan/ナーラーヤナとは、ヒンドゥー教/仏教の神・ビシュヌのことで、ビシュヌは「枷や束縛から離れたもの」。

 

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