2021年3月、ザブングルというお笑いコンビが解散した。ザブングルと言えば何と言っても、ボケの加藤の「悔しいです!!」というギャグだ。高校ラグビーを題材にしたドラマ「スクールウォーズ」の、県大会で大敗を喫した直後の場面をデフォルメしたネタで、しかめっ面風の変顔をして「悔しいです!!」と叫ぶ(ザブングル (お笑いコンビ)#持ちギャグ - Wikipedia)。
加藤は決してハンサムと言えるタイプではなく、所謂ファニーフェイスである(ファニーフェースとは - コトバンク)。その面白みに溢れた顔でしかめっ面して見せることで、元ネタであるスクールウォーズの当該場面にはない面白さを生み出している。つまり、自分の容姿を武器にして笑いを作っている。本人がどう認識しているかは別として、見る人によっては自虐ネタにも見えるかもしれない。
そうやって、一般的にハンサムとか美しいとか言われないタイプの容姿を笑いの材料にする手法で、芸能活動をする者は決して少なくない。分かりやすく言えば、ハゲやデブ、不細工などを利用して笑いを生み出すタイプの芸人たちだ。
「容姿に言及するネタを捨てることにしました」3時のヒロイン・福田麻貴さんが宣言 | ハフポスト
という記事が気になった。お笑い芸人・3時のヒロイン 福田 麻貴が、ツイッターで、容姿に言及するネタを捨てることにした、と表明したことに関する内容だ。詳細については今後改めて説明する、という話なので、現時点ではその決意について厳密に評価することは難しい。だが、容姿に言及することについて、改めて考えるきっかけになった。
容姿への言及と言えば、2017年、防衛大臣だった稲田 朋美が、シンガポールで開かれたアジア安全保障会議での演説の中で、出席していたオーストラリアとフランスの国防担当大臣も女性であったことを前提に「見たら分かるように、(私たち3人には)共通点がある。同じ性別で、同じ世代で、全員がグッドルッキング(容姿が良い/美しい)」と発言し、フランスのルモンド紙の女性記者に「大臣の容姿の善しあしなんて誰も気にしていない。女性である大臣自身が、女性差別的な発言をしたのに驚いた」と指摘されたことは、まだ記憶に新しい(稲田朋美防衛相「私たちは容姿が美しい」スピーチは笑えない | ハフポスト)。
政治家はモデルでもなければタレントでもない。そのような場面で容姿に触れるのは、たとえ冗談でも、そして肯定的な内容でも不適切であるというのは、当時既に世界的な常識になっていたのに、稲田はそれを平然とやって批判を受けた。にもかかわらず稲田は、2019年4月にも福島県内での集会で、「自分と森さん(森雅子法相)の共通点は2人とも美人ということ」と発言している(政治家のジェンダー差別発言ワーストは? 麻生太郎氏ら8人がノミネート | ハフポスト)。稲田の学習能力が低いのか、それが出来る雰囲気がまだまだ残っている日本社会が時代錯誤なのか。恐らくその両方なんだろう。
しかし、容姿に言及することは絶対的なタブーなのかと言えば、決してそんなことはない。単に、容姿の良し悪しが重要でない、容姿の良し悪しとは関係ない事柄について・場面で、容姿に言及したり、容姿の良し悪しで人を区別したりしてはいけない、というだけのことだ。とは言っても、それ以外の要素が全く同等だった場合に、雇用側は年齢の若い方を雇用したがるのと同様に、容姿以外の要素が全く同等だった場合には、容姿が直接的に関係のない業務内容でも、容姿の良い、良いと言うか、好みの容姿な者の方を雇用するようなことは否定されないだろうから、適切と不適切の線引きは割合不明瞭である。
芸能活動などは、容姿が重要な要素となるのものの典型的な例だ。勿論容姿だけがその全てではないが、容姿の良さは間違いなく芸能活動において大きな武器になる要素である。容姿の良さを武器にしても良いのであれば、当然容姿の滑稽さ、誤解を恐れずに言えば、容姿の悪さだって当然武器にしても良いはずだ。前者はOKで後者はNGというのはフェアじゃない。つまり、容姿の悪さをネタにしてはいけないのであれば、容姿の良さも同時に飯のタネにしてはいけないことになるだろう。しかし、容姿の良さを飯のタネにしない、つまり芸能活動の武器にしない、というのは、どうやっても実現できないだろう。もしそれを実現したければ、芸能活動全般を飯のタネにしないということにしなければ実現できないだろう。
容姿の悪さをネタにすることが絶対的なタブーにはできないことは、そのように説明できるはずだ。では、自虐はOKで他者がイジるのはNGという認識に妥当性はあるだろうか。自分は妥当性はないと考える。ハゲやデブ、不細工などを自虐的にネタにする、と言うと、本人がそれをやる場合が強く連想されるが、日本ではお笑い芸人はコンビが主流である。ということは、コンビのハゲやデブ、不細工でない方が、そのような要素を持つ相方をいじったり揶揄することも、当事者を含むコンビとしての自虐ネタと言えるのではないか。それはトリオ芸人でも一緒だろうし、当事者が容認しているのであれば、コンビやトリオのような常に一緒に活動する芸人でなくても同じではないだろうか。つまり、イジりと自虐は紙一重でしかない。
また、容姿をネタにした芸を笑ってはいけない、というのも妥当とは言えない。芸人の笑いを狙った言動を笑うことは、間違いなく芸人への称賛だ。笑いを起こしたくて容姿をネタにしているのにそれを笑ってはいけないというのは、当該芸人にとっては酷な話だろう。容姿の良さを武器にする者はそれで称賛を受けるのに、容姿の悪さをネタにした者は笑ってはいけない、称賛してはいけないというのは決してフェアじゃない。だから容姿をネタにした芸を笑ってはいけないのであれば、モデルや俳優やアイドルなどを、カッコイイとか美しいとかカワイイとか称賛するのも、同じ様に不適切だとなりかねない。逆に言えば、だから政治やビジネスの場で容姿に言及するのは、肯定だろうが否定だろうが不適切とされている。
一応注釈しておくが、当事者が嫌がっているのなら勿論その限りではない。嫌がる者の容姿をネタにするのは間違いなく不適切な行為である。
こんな風に書くと、ならば3時のヒロインの福田 麻貴の「容姿に言及するネタを捨てることにした」という表明に否定的なんだろう、と思われるかもしれない。しかしそうではない。容姿の良さを武器に芸能活動をすることがOKなのだから、容姿の滑稽さを武器に芸能活動をすることもNG、タブーにしてはいけない。しかし、容姿をイジる類の芸は、パワハラやいじめのように見えることもあり、場合によってはそれを肯定しているように見えてしまうこともある。つまり受け手が成熟していなければ、悪影響を受ける者が出てしまう恐れがあり、だからそのような芸を「私たちはやらないことにした」という表明には、少なからなず意義があると考えている。
社会全般のレベルが、それを受け入れるのに足る程度ならば、そんな表明は必要ない。余計なタブーを増やすなと言うところだが、容姿への言及は不適切であると指摘を受けた稲田が、結局同じ事を繰り返している件について言及したように、日本の社会にはまだまだ時代錯誤な認識を持つ者が少なくなく、それに足るレベルに達しているとは言い難い。
だから、3時のヒロインの福田 麻貴の「容姿に言及するネタを捨てることにした」という表明には、間違いなく一定の意義があると考えている。