スキップしてメイン コンテンツに移動
 

医療現場を圧迫する五輪「断る勇気」

 断る勇気。東京都が薬物乱用防止キャンペーンに用いているコピーだ。誰かに甘い言葉で「一緒にやろう」と誘われても毅然と断る勇気を持とう、という意味が込められている。この断る勇気というコピーは薬物乱用防止だけでなく、いじめ撲滅の為にも「あいつを無視しようなどと誘われても…」のような文脈で用いられるし、暴力団排除の場面でも、みかじめ料の要求等への適切な対処の1つとして、しばしば用いられている。

 これはそのコピーを用いたポスターで、東京都の取組みと活動紹介 | みんなで知ろう危険ドラッグ(違法・脱法ドラッグ)からダウンロードできる。都は啓蒙用ポスターだけでなく動画も公開していて、本編は18分もあるが、これはCM用の60秒バージョンだ。


 この薬物乱用防止キャンペーンに限らず、断る勇気、というコピーが示すのは、おかしなことに誘われても、おかしなことを要求されても、長い物には巻かれろで受け入れてしまわずに、その良し悪しを自分の頭で判断し、毅然と断るべきである、ということを言っている。

 だが東京オリンピックはどうか。国内外で相変わらず新型コロナウイルス感染拡大は収まっているとは言えず、特に国内では拡大傾向にあり、更に積極的な皆検査も行われず、ワクチン接種の進捗は世界最低レベルなので、国民の大半が今夏の開催は妥当でないと考えている、という調査結果が示され、国外からも開催強行は妥当でないという声が高まっているにも関わらず、首相が「開催するか否かの権限はIOCにある」としている。なぜ首相や都知事、そして組織委等の関係者は「断る勇気」を発揮できないのか。特に都は薬物乱用防止キャンペーンで、そのコピーを大々的に使っているにも関わらず。
 5/8の投稿で指摘したような、オリンピック開催の是非に関する自分の考えを積極的に示さず、IOCや政府や組織委の決定に従うと言っているスポーツ選手、そしてスポンサー企業、積極的にその異様さを書かないメディアなども同様である。充分な検査が行われていないのに毎日数千人の新規感染者、数百人の死者が確認されたと発表されていて、つまり潜在的には更なる感染の拡大が懸念される状況にあり、ほうぼうの医療現場から「もう無理」「オリンピック開催なんてとんでもない」という声が上がっているにも関わらず、そんな声を無視して「断る勇気」を発揮できないなら、それはもう依存症、中毒患者のような状態だ。


 次の画像は、都の公開したムービーから切り出したスクリーンショットだ。どれも対象が薬物でなくオリンピックだったとしても当てはまる内容である。


このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。