我慢は人が生きていく上で間違いなく必要なスキルの一つだ。大抵の人は幼少期にその必要性を教えられ身につける。思い通りにならなくても物を粗末にしてはいけない、他人に暴力を振るったり暴言を吐いたりしてはいけない、別の子が持っているものがどんなに羨ましくても、力ずくで奪ってはいけない、などが最初に経験する我慢ではないだろうか。
我慢は生きていく上で必要なスキルであることに間違いはないが、しかし我慢をあまりにも過度に美徳として称えることは決して好ましいとは言えない。個人が自分に対してどんなに我慢を科そうが、精神的に病んでいない限り、それは個人の自由でしかないが、我慢を美化して他人に過剰に強いることは、適切とは言い難い。
日本人というのは極端な人が多く、0か100かで物事を捉える人が結構多く、我慢についても、無条件に素晴らしいこと、という認識の人は決して少なくない。しかしそれは間違いなくバイアス/思い込みの類であり、正しい認知ではない。そのような傾向は、ブラック校則やブラック企業が育つ土壌、という弊害も生む。
例えば、黒髪強要という、教員も親も「学生らしくない」という非合理的な説明しかできない典型的なブラック校則が未だにある。そんな非合理的な校則について「ルールはルールなんだから守れ。自分も我慢してきたのになぜおまえはできないのか」のようなことを平気で言う人が少なくないが、それもまさに我慢の過剰な賛美と強要にほかならない。「髪の色が黒くないと、生意気だ、などと言われて不良に絡まれる」から黒髪強要にも合理性はある、のようなことを言う人がいるが、そのケースにおいて悪いのは難癖をつけてくる人達の方であり、断じるべきのその種の人達なのに、なぜ絡まれる方が我慢を強いられるのか。全く理解できない。黒髪にすることに、トラブルへの防衛策としては合理性があっても、それをルール化して強いることには合理性がない。
なんで日本人はこんなにも我慢が好きなんだろうか。いや、他人に我慢を強いることが好きなんだろうか。そのような性質を、あたかも古来からの伝統かのようにいう人もいるが、古来からの伝統かのように認識されているものの中には、近代以降に始まったこと、きっかけがあることも決して少なくない。
例えば武士道という言葉があるが、武士道という概念は鎌倉期から既にあったようではあるものの、そもそも武士の生き方に関する概念であり、日本人全般の美徳に関する概念とは言えなかったのではないか。武士道の概念が広がったのは、恐らく明治期に新渡戸 稲造が武士道と言うタイトルで英文の著作を書いたからだろう。つまり、武士道は武士の伝統であっても、古くから続く日本全般の伝統とは言い難い。
我慢が美徳とされるようになったのも、個人的には明治期以降だと思っている。1985年、日本は日清戦争に勝利し、その結果遼東半島を手に入れたものの、仏独露による同半島の返還要求・所謂三国干渉を受け、最終的に返還に応じた。当時日本では「臥薪嘗胆」という史記に由来する四字熟語が流行ったそうだ。臥薪嘗胆とは「薪の上に臥(ふ)し、苦い胆を嘗(な)める」であり、復讐の志を忘れず、どんなに長い間であっても、どんなに辛くても、苦労を厭わず我慢を重ねることを意味する(臥薪嘗胆とは - コトバンク)。このあたりが我慢を美徳とする傾向の始まりだったのではないか、と想像する。
この場合の復讐の対象は主にロシアであり、日清戦争から10年後、日本は本当に日露戦争を始め、日本海海戦でバルチック艦隊を撃破したり、戦争中にロシアで革命が起きる等した結果、日本は勝利を収めるが、203高地が有名な旅順攻囲線などで多くの兵を失うなどの、戦争の為に払った代償に見合う見返りを得ることは出来なかった。つまり、日清戦争後、国は「臥薪嘗胆」の掛け声の下で国民へ我慢を迫ったものの、それに見合う見返りを用意できずに、不満をできる限り逸らす為に、我慢こそを美徳として演出し、我慢すること自体に意味を与えようとしたのではないだろうか。
その後の戦争でも、国は平然と国民に我慢を強いている。太平洋戦争期に国が掲げたスローガン、「日本人なら贅沢は出来ない筈だ」はまさにその典型的な例だし、「兵隊さんは命がけ 私たちは襷がけ」も、兵隊たちは艱難辛苦の連続なのだから、私たちも我慢を強いられて当然、というニュアンスがが含まれている。「この一戦何がなんでもやりぬくぞ」にも、どんなに苦境に陥っても、我慢に我慢を重ねて戦いを止めない、勝つまでやりぬく、のような意味がある。80年前の戦争は、あんなに沢山の犠牲を払ってまで、そんな我慢をしてまですべきことだったのか。どう考えても、それに見合う見返りはなかったし、それを得られる可能性も殆どなかった。暴走した軍による面子維持の側面の方が強かった、その為に国民に大きな犠牲と過剰な我慢を強いたとしか思えない。
この1年、日本の新型コロナウイルス対応の体たらくと、既にワクチン接種がかなり進んでいたり、厳しい水際対策によって感染拡大をほぼ抑え込んでいる国などを比べると、その差は、「欲しがりません勝つまでは」と政府が我慢を強いることに対して、無頓着にそれを容認し、不要な我慢をしてしまう国民性の前者と、「何言ってんだよバカ、無駄な我慢を強いるなんて意味ない、我慢を強いる前にちゃんと対策を進めろ」と、我慢を美徳とするようなその種の精神論を拒否できる国民性の後者の違いなのかもしれない、と強く感じる。
我慢は人が生きていく上で必要なスキルであることに間違いはないが、我慢を過度に美徳とすると、不適切な行為に対しても「我慢すべきだ」ということになってしまい、その結果正常な結果を遠ざけるという弊害が起きる。
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