またセルビアのバレーボール代表選手がアジア人蔑視のゼスチャーをやったそうだ。イタリアで行われている国際大会でタイと対戦した際、試合中にある選手がつり目のゼスチャーをした。「また」というのは、2017年にも日本で開催される大会への出場を決めた際に、チーム全員でそのポーズをとった集合写真を撮り、SNSへ投稿していたからだ。
女子バレー選手が「つり目」のポーズ。アジア系を侮辱する行為だが「単なる誤解」と説明【動画】 | ハフポスト
個人的には、蔑視を疑われるポーズであるという指摘は必要だと思うものの、「時代遅れの、東欧の田舎者など放っておけ」という感の方が強い。
オリンピックに関連して、開催強行派が「スポーツの力」だのと情緒的な美化に勤しんでいるが、本当にスポーツの力なんてものがあるのだとしたら、こんなことは起きないのではないだろうか。少なくとも国の代表として国際試合に出場する選手が、蔑視を疑われるポーズを、指摘を受けても尚やる、なんてことはないだろう。逆に言えば、スポーツの力なんてのはそんな程度のものでしかない。
「世界が団結した証」がどうのと言っている者もいるが、差別的な者、差別や偏見に無頓着な者と団結なんてしたくないし、一つにもなりたくない。
自分が思い浮かべた「時代遅れの、東欧の田舎者」という表現は、これも場合によっては侮蔑的で不適切な表現に当たるだろう。個人的には、侮蔑的なことを言ってくる/してくる者に対して、皮肉としてこのような表現を用いることは、必ずしも不適切とは言えないと考える。だが、目には目を歯には歯をは紀元前の発想であり、相手が侮蔑的/差別的であったとしても、それに同じ態度で応じるのは紀元前的な発想なので、それもまた不適切かもしれないが。
例えば、今も昔も世界的にも優位な立場にある白人が、日本人に対して漠然と「西欧の真似をする、極東の田舎者」と言えば、差別的なニュアンスが含まれている、という解釈は概ね成り立つだろう。しかし、そう言われても仕方ない場合も間違いなくある。
国の代表チームの選手が、揃いも揃って差別的な行為に及んだ場合、それに対して「時代遅れの田舎者」という表現が許されるか。厳しい基準で言えば許されない場合もあるだろうが、それは概ね皮肉として通用するだろう。同じことは、日本人に対する「西欧の真似をする、極東の田舎者」という表現にも言えるだろう。
「子どもへのワクチン接種やめろ」電話殺到 12~15歳に接種の町に「殺すぞ」脅迫も、業務に支障|医療・コロナ|地域のニュース|京都新聞
「デモやったら辞めさせる」 在日ミャンマー人に実習先が心ない圧力 | 毎日新聞
近頃日本で起きている、ワクチンを子供に接種するなと抗議する為に、自治体に「殺すぞ」と脅迫電話をかける事例や、ミャンマー人労働者に対して、雇用主が「軍政反対デモに参加したら解雇する」と不当な脅しをかける事例などは、どちらも間違いなく人権軽視・人権侵害の側面がある。そのような事例を前提に考えれば、
日本は西洋の真似事をしているが、上っ面を真似ているだけで、中身は全く追いついていない極東の田舎者
と、他の地域の人から笑われても当然なのではないか。
勿論、それらの事例は日本人全ての傾向ではないので、「まるで日本人全般がそうであるかのように言われるのは心外だ」と感じる人もいるだろう。その主張も分からないでもないが、しかし一方で、今の日本の政府は、このような行為への批判や指摘に消極的で、特に外国人差別、排外主義には全く無頓着としか言いようがない姿勢だ。その政権がもう既に8年も続いているのだから、「日本は」と括られてもある程度は仕方がないし、日本全般の傾向として、そのような皮肉が呈されるのも絶対的に不適切とは言えない。
同じ表現であっても、場合によっては不適切、場合によっては不適切とまでは言えない、となる事例は多い。言葉とは器であって、その中に何が入っているか、どんなニュアンス・意図が込められているか、がかなり重要だ。
例えば、「バカ」という表現も、何の根拠もなく、若しくはそう言えるに足る根拠もなく言えば、それは暴言であり不適切だ。しかし、首相が国会で「募ったが募集していない」なんて言えば、それに対して「バカ」と言っても決して暴言ではないし、不適切とまでは言えないだろう。何故ならそれはバカでないと言えないような矛盾に満ちた言葉だからだ。
この「募ったが募集していない」という表現に対して「バカ」と言う行為に関しては、不適切な暴言になる場合もある。首相が国会で言えば、首相でなくとも国会議員や官僚、それ以外でも相応の立場にある者が、言い逃れの為の詭弁に用いれば、「バカ」と言われても仕方がない。しかし、小学生が国語の授業中に、募ると募集の意味を上手く解釈出来ずにそう言った場合に、先生や周りの生徒が「バカ」と言えば、それは過度の侮辱に当たり、不適切な暴言になり得る。しかし、当該生徒と先生や他の生徒の間に、相応の人間関係が成立しいて、「バカ」と言われても当該生徒が暴言と感じなければ、その限りではない。
このように、同じ「バカ」という表現でも、言う者と言われる者の立場、そして人間関係、また言う/言われる状況によって、暴言にもなるし、ならない場合もある。「バカ」という表現が常に不適切な暴言とは言えないのと同じ様に、他の侮辱的/差別的と言われる表現も、その妥当性の評価を当該表現だけを見て行うことはできない。
もっと分かりやすい例で言えば、詐欺師を詐欺師と呼ぶのは暴言でもなしい侮辱でもないが、詐欺師でない人を詐欺師と呼べば、それは暴言になるし侮辱にもなる、ということである。
昨今政治家、特に政府や与党関係者が、上っ面だけの言葉で誤魔化そうとする事例が、ほぼ毎日のように出てくる。日本人はよく言えばお人好し、悪く言えばよく考えないズボラ、もっと悪く言えば詐欺師に簡単に騙されるバカが多いので、そういう政治家が幅を利かせる社会になってしまっている。
自分の頭を使ってよく考える、これはどんなことに関しても重要で、且つ基本的な対応だ。