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スポーツ選手には判断力が不可欠なのに…

 判断力は、人間が生きていく上で、いや恐らく全ての動物が生きていく上で重要な能力だ。判断を間違うと命を落とすことにもなりかねない。何もこないだろう、という判断に基づいて安易に道路に飛び出せば、最悪交通事故で命を落とす。それはゴキブリだって同じで、運悪く人間の前に出てしまった際にどのような場所へ避難するかは、殺虫剤やはたきから逃れられるか否かを大きく左右する。


 そのような深刻で重大な判断でなくても、生きることは判断の連続だ。クルマを運転している時にガソリンの残量が心もとなくなってきたら、目先のガソリンスタンドで給油するか、次にもっと安いガソリンスタンドが出てくるかもしれないからスルーするか、の判断を迫られる。一般道なら次の店の価格もそれ程大きく変わらないだろうが、地域によっては次の店がかなり遠く、ガス欠に陥る恐れも出てくる。高速道路上なら、SA等のガソリン価格は一般のガソリンスタンドよりも10-20円高いことも多く、クルマが大きくなれば、1回の給油で1000円以上の損得が生じる場合もある。価格は高いが安心を優先して高速道路上で給油するか、ガス欠しないと予測して目的のインターで降りてから安い店で給油するか、場合によってはその判断は悩ましい。
 乗っているのが普段から乗り慣れた車で、大体の燃費が頭に入っているか、渋滞など道路状況が把握できているか、凡そのガソリンスタンドの位置・価格が分かっているか、それらを殆ど把握しない状況で判断を迫られているかどうか、でも選択は変わってくるだろう。つまり、判断力には経験・事前準備も含まれる


 スポーツは瞬時の判断の連続だ。ボウリングやゴルフなどのように、それ程判断の瞬発力を求められないスポーツもあるが、殆どのスポーツは判断の速さを求められる。トップ画像に示したように、レースは混戦になればなるほど判断の瞬発力が必要になるし、野球のように比較的時間の流れがゆったりとしたスポーツでも、バッターは投球に対する瞬時の判断が的確にできなければヒットを打てない。フィールダーも捕球、送球にはそれなりに瞬間的判断力が必要になる。サッカーやバスケットボールなどの対戦型スポーツは更に判断の瞬発力の必要性が高いし、ボクシングや柔道など格闘系スポーツは尚更だ。判断力のいらないスポーツなんてものは存在しない。
 言い換えれば、スポーツ選手とは瞬時の判断力に長けた人達と言えるだろう。瞬時の判断力に長けているなら、瞬発力を求められない判断に関しても、当然秀でているのではないか。だが、前述したように、判断力は経験や事前準備にも大きく左右される。専念しているスポーツでは常にほぼ妥当な判断を下せても、その判断力が全ての状況で発揮されるとは限らない。臨機応変に応用を利かせ、どんなことにも概ね的確な判断を下せる器用な人もいるだろうが、そうではない人もいるだろう。

 とは言っても、プレーンな判断力で言えば、プロスポーツ選手、ハイアマチュア選手は一般人よりも概ね長けていると言えるのではないだろうか。逆に言えば、判断力に欠ける者は、スポーツ選手として一流とは言い難いとも言えるだろう。しかし例えば、ドリフト競技には、サーキットを俯瞰した場所から見て状況をドライバーに伝える役割のスポッターがいる。また自動車レースでは、ドライバーは常にピットと無線でやりとりをしている。また多くのスポーツでは、監督やコーチがコートの外から指示を飛ばし、野球ではキャッチャーがピッチャーの投球選択に強く関わる。つまり極端なことを言えば、誰かの言う通りに動ける、ということで高いレベルのプレーを行う者もいる。言い換えれば、判断力はそれほどでもないが反射神経と運動能力には長けた選手、というのもいるかもしれない。お笑い芸人で言えば、ネタを筋書き通りに完璧にこなすことで多くの笑いを取ることはできるが、フリートークはからっきし、のような。
 そのような選手は一流ではない、とまでは言わないが、個人的には、自分で主体的に判断してプレーする選手こそが、厳密な意味での一流スポーツ選手なんだと考える。


 いくつかの例外を示したものの、やはり一流のスポーツ選手とは高い判断力を持った人のことだろう。しかし、今東京オリンピックに出場している選手、特に日本代表選手に、高い判断力が備わっていると言えるだろうか。自分には全くそうは思えない。
 そもそも、オリンピックを開催すれば新型コロナウイルス感染が拡大する懸念がある、という指摘が少なくとも半年以上前から行われ、昨年から医療現場は感染拡大によって逼迫し、また政府や自治体によって槍玉上げられたエンターテインメント界隈・飲食店業界は、自粛を暗に強制され、罰までチラつかせて脅されている状況だった。感染拡大が防げればそのような悪影響はできる限り回避できるのに、そして他エンターテインメント界隈や飲食店業界は自粛を強制されているのに、感染拡大の懸念を無視して、他のイベントの自粛強制を無視して強行されるオリンピックに出場するということは、そのような悪影響を厭わない、優しく言っても無視するということである。
 そのような選択は判断力に長けている者ならできるものではないのではないか。


 また、首相の菅が、金メダルを獲得した選手に電話で祝意を伝える、というニュースが聞こえてくるが、オリンピックは政治的利用を選手には厳しく禁止し、人種差別への抗議行動すら許さないのに、開催国の首相がこんなにもあからさまに政治的にオリンピックを利用することはどうなのか。それを拒否するという判断を下せない選手もどうなのか。

金ラッシュ、追い風期待 祝意ツイート連発、感染拡大懸念も―菅首相:時事ドットコム

 この記事にはこんな記述がある。

コロナ禍での五輪開催には批判的な世論が多かったが、政権はメダルラッシュで国民の五輪祝福ムードが高まることを期待。「雰囲気がいい」(自民党幹部)、「政権に追い風になればいい」(官邸幹部)など歓迎する声が広がる。

これが事実なら、明らかにスポーツ・オリンピックの政治利用にほかならない。拒否しない選手もどうかしていると言うよりほかない。もしメダルを獲得した選手が首相からの電話に対して明確な拒否反応を示せば、間違いなくどこかが報じるだろうが、そんな話は一切聞こえてこない。

 一方で、米国トランプ政権下では、多くのチーム・選手がトランプ・ホワイトハウスへの訪問を拒否した。

 トランプが拒絶された理由は、性的な蔑視・白人至上主義の疑い、根拠を示さずに過激な主張を繰り返す、などだった。ということは、性的蔑視や障害者差別、人種差別の懸念が運営関係者から続発した東京オリンピックも拒絶されて然るべきではないのか。根拠を示さずに安全安心と言い張る行為は東京オリンピック運営関係者や日本政府・首相・都知事などもやっている。拒絶されて当然なのではないか。しかし多くの選手が無頓着にも同大会に参加してしまっている。感染拡大の懸念という最大の要因もあるのに、それも無視して。
 そのように考えている為、参加する選手全て、というか式典に関わった芸能人らも含めて、その全てが既に嫌悪の対象だが、そこを百歩譲ったとしても、菅の電話を拒否する選手がいないことには本当に辟易する。親方日の丸が当たり前の日本スポーツ界は病んでいる。

 ただ、日本のスポーツ界にも例外はいる。組織委の中にあってそのあり方を厳しく批判している山口 香がいるし、元ラグビー選手の平尾 剛は、東京オリンピックや組織委・日本政府・IOCの対応を厳しく批判している。
 また、今回のオリンピックに関してではないが、政治的に利用されることを明確に拒んだ日本人スポーツ選手もいた。それは、野球選手のイチローだ。イチローは、2019年4月、安倍政権からの国民栄誉賞打診を断っている。

イチローさん、国民栄誉賞を3度目の辞退 「人生の幕を下ろした時に…」 | ハフポスト

 本当は米国のスポーツ選手らのように、もっと明確に拒否理由を示すべきだと考える。だがそれでも、東京オリンピックに参加してしまう選手、菅からの電話を拒否しないメダリストに比べれば、その振舞いは雲泥の差だ。記事にもあるように、イチローは小泉政権からの栄誉賞打診も2度断っていて、政治と距離をおく姿勢は頑なである。

 なぜ日本には、イチローのような判断を持つ選手が少ないのだろうか。それはやはり日本の教育が、考えるよりも従え、という方針の下で行われているからだろう。つまり日本のスポーツ選手の多くは、判断力に長けた人達ではなく、指示通りに動くことに長けた人達ということなんだろう。そんなことを、今回の東京オリンピックと日本代表選手の振舞いから強く感じる。


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