小田急線内で乗客が切りつけられるという事件が8/6に発生した。切りつける、という表現から、通り魔を連想したが、その時に最初に頭に浮かんだのは、自分が小学生だった頃、つまり1980年代の後半は、今よりも頻繁に通り魔事件という表現がなされていた、という思いだった。1980年代以前は今よりも通り魔が多かったのか。
検索して出てきたのは少し古い記事だったが、2008年に警察庁が認知した通り魔事件件数は13件で過去最多だったそうだ。2008年と言えば、秋葉原の事件が発生した年だ。
通り魔殺人が過去最多、できる対策からはじめよう|あんしんコラム 第7回|女性の防犯・防災対策|あんしんライフnavi|防災対策・セキュリティのセコム
この2008年までの傾向が今も概ねそのままであれば、今も1980年代も恐らくそんなに大きな差はない。むしろ今の方が多くなっている恐れもある。単にメディアで通り魔という表現が用いられる機会が減っただけだろう。警察庁の定義では、人の自由に出入りできる場所において、確たる動機がなく、通りすがりに不特定の者に対し、凶器を使用するなどして殺傷等の危害を加える事件を、通り魔事件と呼んでいるそうだ。
最近は無差別殺傷事件の方がよく耳にするという印象がある。若しくは発生した場所などに ”事件”を付けた呼称もよく耳にする。2001年に起きた池田小の事件は池田小事件だし、2016年に相模原市の障害者施設で起きた事件は相模原事件と呼ばれる。2018年に新幹線車内で発生した事件は東海道新幹線車内殺傷事件と呼ばれている。しかしどれも通り魔事件の要素を持っている。
小田急線刺傷 対馬容疑者 女子大生執拗に狙ったか、傷7カ所「勝ち組っぽく見えた」:東京新聞 TOKYO Web
「約6年前から幸せそうな女性を見ると殺したいと思うようになった」「かつてサークル活動で知り合った女性に見下された」「出会い系サイトで出会った女性とデートしても途中で断られた」「誰でもよかった。大量に人を殺したかった」などと容疑者が言っている、と捜査関係者が言っている、という報道が大量になされている。
日本の警察は自白強要を平然とやるような組織だし、その発表、関係者の話だけを鵜呑みにするわけにもいかないが、事件発生から2時間後に事件現場から4kmほどのコンビニに現れ、店員に「自分がやった。逃げるのに疲れた」と説明したそうだから、事件を起こしたのはこの容疑者で間違いなさそうだ。
警察発表だけを基に事件を評価するべきでない、という声もあるが、もし警察が事件や容疑者の証言を歪曲した発表をしているのなら、それは警察の不誠実を問うべきことであって、現時点では警察発表しか情報がないのだから、警察発表が概ね事実に即している、という前提に基づいて事件を評価するのはそれ程問題のあることではないのではないか。容疑者が否認しているならまだしも、容疑者は犯行を認めているようではあるし。
ただし次のような見出しで記事を書き、そして掲載するのは神経を疑う。
「非モテ」による無差別刺傷、小田急線事件が示す分断社会の暗闇 女性を憎悪する「望まぬ禁欲者」の犯罪、日本でも増えそうな予感(1/5) | JBpress (ジェイビープレス)
非モテ?本人がそう示唆しているだけで、本当に女性に相手にされなかったから、というのが事件を起こした主たる要因かどうかはまだ定かでない。そもそも容疑者が本当に女性にモテなかったかも定かでない。このような見出しは、女性にモテない奴=危ない
みたいな偏見を助長しかねない。というか、記者が持つ偏見が丸見えと言うべきか。
この記事はこの大元のサイトだけでなくYahooニュースを始めとした複数のニュースサイトに転載されている。昨今日本のテレビや新聞など、大手メディアの低レベル化も著しいが、Webメディアも未だそんなレベルだ。
読売新聞の記事によれば、容疑者は大学中退後職を転々とし、「数か月前から生活保護を受けていた」とも話しているそうだ。
【独自】「数か月前から生活保護」小田急切りつけ容疑者、大学中退後は職を転々…自暴自棄になったか : 社会 : ニュース : 読売新聞オンライン
この記事が事実に即しているなら、非モテで女性に恨みを募らせた、というのは事件を起こした主たる要因でなく、反撃される恐れが低い、自分よりも非力な女性を狙う為の口実に過ぎない、ということも充分に考えられる。それは、誰でもいいと言いつつ女性を狙っていることからも推測できる。だから「非モテ」による無差別刺傷なんて安易に書くべきでない。
それとは別として、容疑者に「自分は不幸だ」という思いがあったとして、その根源はこんな社会にしてしまった権力にあるという認識にならずに、なぜ自分と同じか自分よりも弱い存在に嫌悪が向かうのか。全く理解し難い。社会を主に動かしている権力には違和を示さないことは、あわよくば自分も搾取する側になりたかったんだろうとしか思えない。だから理不尽な敵意を自分よりも弱い存在に向けて露わにしたんだろう。
これは、この通り魔事件の容疑者だけに見られる傾向ではない。2010年代に猛威をふるい、今もくすぶっている生活保護受給者への嫌悪、在日コリアンへの嫌悪、同性愛者への嫌悪、どれにも同じ様な構造があるんだろう、と強く感じる。そうやって自分よりも弱い立場の人達を攻撃しても、決して自分の生活はよくならない。そのうち自分や自分の家族、友人が標的にならないとも限らない。自分だけは大丈夫、という漠然とした思いは間違いなく幻想・勘違いに過ぎない。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
という、マルティン ニーメラーの話が基になった詩がある。今日本人のうち、少なくない人が、ナチが拡大した頃のドイツ国民と同じ過ちを犯している。
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