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偶像崇拝禁止の形骸化と、五輪政治利用禁止の形骸化

 日本の為政者やテレビを始めとしたメディアが、スポーツの力だとか、世界がコロナに打ち勝った証などと、オリンピックを崇める、崇めているように演出しいているのを見ていると、いくつかの宗教が偶像崇拝を禁じている理由が分かるような気もする。人間が抱えている問題の多くは、2000年前と本質的にはそれ程大きく変わらないのかもしれない。


 ユダヤ教やキリスト教、イスラム教では偶像崇拝は基本的には禁止されている。しかしキリスト教・カトリックでは偶像と神像を区別、または崇拝ではなく崇敬だとして、十字架やキリスト像・マリア像が公然と礼拝所に存在することは珍しくない。イスラム教でも、スンニ派は厳格に偶像崇拝を否定しているが、シーア派は割合寛容で、至る所に宗教的指導者の肖像があったりする。このように、一口に偶像崇拝禁止といってもそこには幅があり、偶像や崇拝の定義によって認識は様々だ。
 なぜそれらの宗教では偶像崇拝が禁じられているのか。偶像は人間が作り出したものにすぎず、神そのものではない、だから偶像崇拝は一種の冒涜である、という論理で、偶像崇拝を原則禁止している宗教が多い。だが、前近代的まで識字率は世界的に高いとは言えない状況だったので、教えを経典で伝えるよりも象徴的な像や絵画等で布教する方が有利だった。その為原則に禁止なのに偶像崇拝をやる宗教が出てきた。前述の宗教の中で言えば、キリスト教カトリックにその傾向が最も顕著である。

 今日本では、お寺に仏像があるのは当たり前の状況であるが、本来は仏教も偶像崇拝を禁じていた。しかし紀元前には既に仏像が作られ始め、今では他に類を見ない程多種多様な仏像や宗教画が存在しており、仏教も当初は偶像崇拝を禁じていた、と言っても信じ難い状況になっている。これは日本に限らず、タイやスリランカ、ベトナム、中国等、他の仏教国でも同じような状況だ。


 偶像は人間が作り出したものにすぎず、神そのものではない、だから偶像崇拝は一種の冒涜である、という考えが、偶像崇拝を禁じる理由だとすれば、日本の為政者やテレビが、スポーツの力だとか、世界がコロナに打ち勝った証などと、オリンピックを崇める、崇めているように演出しいているのを見ていると、いくつかの宗教が偶像崇拝を禁じている理由が分かるような気もする、という話は成り立たないようにも感じられるだろう。だが本質的には共通する部分があるのではないか?と自分には思える。
 神ではなく偶像そのものを崇拝することに繋がってしまうから偶像崇拝が禁止された、という話は、言い換えれば、偶像崇拝は、神の教えではなく偶像だけを崇拝することに繋がる、という意味も含まれているのではないだろうか。つまり偶像崇拝を認めると、宗教は広まるが、その本質である教えは広まらない、という状況に陥る懸念がある、若しくは、教えの内容を理解せずに、偶像を、もしくは偶像をつくった者、その偶像を賛美する指導者や偶像を象徴に仕立て上げた権力者を、信徒が妄信し始める懸念がある、という理由から、いくつかの宗教では偶像崇拝が禁じられているのではないだろうか。また、偶像にまつわるビジネスを展開し始める者への懸念、つまり神や信仰が商売という世俗的なものに利用される恐れへの対処という側面もありそうだ。

 仏教は特に教えの形骸化が顕著で、教え云々ではなく「南無阿弥陀仏」とお経を唱えれば救われるとか、お経を唱えたり書いたりする代わりにマニ車を回したり、石を積み上げたり、五色旗を掲げたりすれば救われる、のような宗派が多く存在している。宗教とは本来、生活や生き方に関する教えを学ぶ為の存在だが、極端な場合、そのような本質は形骸化し、形式的な信仰だけが残っているケースもある。
 今の日本はそれが顕著で、いや、江戸時代のお寺は今で言うところのテーマパークなんて話もあるし、近世から既にその傾向があったのかもしれないが、神社やお寺に行った時に、なぜそうするのかも考えずに作法だけに注目して形式的に参拝したり、葬式は仏教式でやるのに、結婚式は教会で、なんてケースも全く珍しくなく、偶像崇拝による宗教の形骸化が著しい状態と言えるのではないだろうか。

 つまり、本質が形骸化してしまうという理由で宗教的な偶像崇拝が禁じられている面もあるんだろう、と想像する。原則禁止としつつも、言葉遊びのような理屈で実質的には偶像崇拝を認めている宗教の現状に鑑みれば、その考えは決して的外れとは言えないだろう。


 テレビや為政者がオリンピックを崇める、崇めているように演出しいているのを見ていると、幾つかの宗教が偶像崇拝を禁じている理由が分かるような気もする。人間が抱えている問題の多くは、2000年前と本質的にはそれ程大きく変わらないのかもしれない。という考えを今朝ツイートしたところ、こんなリプライがあった。

 昨夜の DOMMUNE は「AMAZON EXCLUSIVE「DOMMUNE RADIOPEDIA」【大百科6】「ベルセルク」から「MONSTER」「微笑む人」- DOMMUNE」という番組だった。番組のテーマは、貫井徳郎の小説で、3月にテレビドラマ化もされた「微笑む人」、漫画/アニメのベルセルクと Monster について論じる、というものだった。

番組の冒頭では、主テーマへの導入として、オリンピックの強行、その裏で起きている新型コロナウイルスの感染爆発に関する話など、時事的な話題にも触れていて、その中に、なぜ日本人はこれ程までに無能な政府に強い拒否反応を示さないのか、文句を殆ど言わないのか、という話もあった。
 その話を聞いてこうツイートした。

前述のリプライを貰い、すぐに昨夜のこのツイートが頭に浮かんだ。やはり、多くのことは個別の問題のように見えて、少なからず関連性がある。偶像崇拝は、象徴への盲信に繋がりかねない、考えることを止めるという、楽な方向への導きでもあり、その裏には少なからず悪い部分もある。
 偶像崇拝は考えることを止めるという、楽な方向への導き という話を、東京オリンピックに当てはめて考えれば、「始まったんだから文句を言わず楽しもう」「何で団結して応援できないの?」のような、論理を無視した情緒的な話が、あたかも正論かのように大腕を振って歩き始めること、開催前から感染爆発の懸念が指摘され、そして医療現場の困苦は開催以前からあったのに、そんな非論理的な話が少なくない人達に受け入れられてしまうことにも繋がる、ということだ。そんな偶像崇拝の悪影響、物事の良し悪しすら考えられない人を作り出してしまうことは、今開催中の東京オリンピックを見れば明らかだ。


 オリンピックやスポーツの政治利用はまさに、いくつかの宗教で禁じられている偶像崇拝の類た。本来オリンピックも、ナチがベルリンオリンピックをプロパガンダの為に大いに利用したことの教訓から、政治とは距離を置くことになっているのに、東京オリンピックに限らず、少なくとも2000年代以降のオリンピックは、少なからずそれが形骸化し、政治的に利用される傾向が強まっている。
 スポーツ選手は、あくまでも自分の為にやっているつもりかもしれない。しかし、そうやって象徴・偶像的に政治的に利用されていること、政治的に利用されることがどんな影響を起こすか、をもう少ししっかりと考えなければ、決して遠くない将来、嫌悪の対象になってしまうだろう。トランプに曲を使われたアーティストのうちの何人かは、明確に利用するなと声を上げていた。それは、同類にされたくないという意思表示だし、自分の楽曲が差別や蔑視に利用されることへの拒否反応だ。スポーツ選手だって、政治利用に対しては明確な意思表示が必要ではないだろうか。
 少なくとも自分の目には、政治利用に否定的な意思表示をしないスポーツ選手は、橋本 聖子や鈴木 大地のようなポジションに就きたいと考えているようにしか見えない。


 そんなことを考えると、オリンピックやスポーツの政治利用は、カトリックが布教の為、若しくは一部の指導者の利益や統治に利用したい権力者の利益の為に、偶像崇拝禁止を形骸化させたのとよく似ており、人間社会が抱える問題の本質は、やはり今も昔もそんなに大きく変わっていないのではないか、と感じる。つまりある意味で人間は本質的には進歩していないのではないか、とも思える。


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