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健康で文化的な最低限度の生活 とは


 1日24時間は長いか短いか。日々が充実していると、若しくは何かに没頭していると、24時間では足りないと感じるし、充実していない日々を過ごしていると、若しくはやりたくもないことをやらされていると、24時間は長いと感じるものだ。


 やりたいことが多ければ時間はいくらあっても足りないと思うだろうし、やりたいことがなければ、次にやりたいことをできる時まで時間を早送りして進めたいと思うものだ。例えば、週1回連載の漫画や週1回放送のアニメだけを楽しみに生きているなら、今週号を読んだら、今週の放送回を見たら、早く来週にならないかな、という風に考えるだろう。他にもやりたいこと、楽しみにしていることがあるなら、早く来週にならないかな、とは思うかもしれないが、1週間分の時間を早送りしたいとは思わないはずだ。早送りしてしまったら、他のことが出来なくなってしまうから。


 つまり、1日24時間は長いと感じている人は、概ね充実した生活が遅れていない、と言えるのではないか。勿論、生きていれば楽しいこともあればつまらないこともある。楽しいことだけをやって生きていける人はそうそうおらず、ほんの一握りしかいないだろう。しかし、どんなことも楽しめる人というのが確実にいて、そのような人は、楽しめることが限定的な人よりも充実した生活を送ることができているのではないか。


 個人的には、仕事=生活の糧を稼ぐ手段 と考えており、仕事は基本的には楽しいものではない、と思っているのだが、それでも、作業効率をアップさせたとか、なにかよいアイディアを思いつき、それを実行した、実現した、という時には充足感を感じる。
 娯楽的な楽しさとは別でも、そのような時間も決して、早く過ぎろ、とは思わない。しかし、ただただそこに立っているだけとか、工夫の余地すらない作業を漫然としなければならないとか、そんなことをやっても充足感は得られない。だからそんなことをしなければならなければ、時間よ早く過ぎろと感じるし、たとえその時間を売った見返りに時給が貰えても、ただそれだけで、時間を無駄に使った、優しく言っても有意義ではない時間の使い方をしたと強く感じる。

 自分には子供や家族がいないが、子供や家族がいる人であれば、そのような時間の使い方をして、つまり有意義ではない仕事をしていたとしても、子や家族の為に働く、稼ぐという意味では有意義と考えられるのかもしれない。しかし、時間の使い方として有意義な仕事をして、その収入で子や家族を養う方が、充足感がより高いのは紛れもない事実だ。だから時間の使い方として、有意義ではない仕事をするのは、やはり望ましい働き方とは言い難い。


 こんなことを書くと、世界中の誰もがやりたい仕事をできるわけじゃない、と言ってくる人がいるものだが、ここでの論点は、やりたいことだけをやると、やりたいことしかやらない、という話じゃない。
 やりたいことをする為にはやりたくないこともやらないといけないのは、何も仕事だけの話じゃない。例えば、お菓子を作りたい、について言えば、やりたいことの本体はそのお菓子を台所でつくることだろう。だが、作り方を調べる、必要な材料や道具を揃える、などをまずしなくてはならない。そのようなお膳立てを全て別の誰かがやってくれて、自分は、お菓子を作る、だけをやる、ということが出来る立場の人もいるにはいるだろうが、そんなのは確実に少数派である。
 但し大抵の人は、作り方を調べる、必要な材料や道具を揃える、ということも、お菓子作りの一環として楽しめるはずだ。自分がやりたいことの下準備なのだから。それが楽しめないようであれば、実際にはそれほどお菓子を作りたいわけじゃないんだろう。但し、例えば材料を一から栽培・飼育するとか、道具をまず作るところから始める、ような状況であれば、お菓子作りを仕事にするレベルで興味がないと楽しめないかもしれない。でもそのレベルで興味があれば、そんなことも楽しめる、充足感を得られ対象になるのではないか。
 このようなことも、どんなことも楽しめる人とそうでない人の差かもしれない。


 兎に角、1日24時間は長い、と思っている人は、概ね充足感のある生活が出来ていないんだろう。充足感を得られない仕事に時間を使うということは、時間を無駄にしている恐れが強い。何かの病などで余命宣告された人が、死と向き合い時間が有限であることを意識した結果、その使い方を考え直す、という話をしばしば耳にするが、誰でも寿命はおよそ70-90年程度で、みな平等に死に向かって近づいている。つまり1人の人間が生きていられる時間は限られている。その限られた時間の多くを充足感を得られないことに使うか、充足感を得られることに使うか、どっちがいいのかを考えたら、後者の方がいいに決まってる。

 生きる、とは何か。どういうことか。ただ単に心臓が動いて呼吸だけしていても、生物学的に生きている、ということになるだろうが、やりたくもないことをやらされて、充足感を得られないことにばかり時間を割くことは、果たして生きていると言えるだろうか。それは生きているというよりも、生かされているだけ、に近いのではないか。
 映画マトリックスの中では、人類は機械のエネルギー源にされ、カプセルで培養されてそこから出ることなく死んでいく。あの映画の設定では、効率よく人をエネルギー源にする為に、人は一生目覚めることなく生まれてから死ぬまで夢の中だけで人生が終わる。でも夢の中だけで生きられるだけ、現実に比べたらまだマシかもしれない。近代以前は奴隷制があって、労働力として一生搾取され続ける人達がいた。近代以降、便宜上奴隷制はなくなったが、資本主義経済の行き過ぎによって、今も実質的には労働力として搾取されている人が少なからずいる。一生の大半をやりがいもない、やりたくもない仕事をするしかない状況におかれる人がいる。


 現代的な国家の多くでは、基本的人権を、生まれながらにして全ての人が持っているもの、としている。また日本では、憲法25条に、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する、とある。最低限度の生活とはなんだろうか

なにかにつけ、「○○の定義はない」と言いだす今の政府に言わせれば、「健康で文化的な最低限度の生活に関する定義はない」として、一生の大半をやりたくもない、やりがいもない仕事をさせられる、そんな仕事をするしかない状況におかれる人が存在しても問題ない、と言いそうだ。

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 トップ画像には、時間 時計 目覚まし時計 - Pixabayの無料写真 を使用した。

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