最近のスマートフォンのカメラの性能は本当にスゴイ。撮像素子の性能向上だけでなく、物理的な撮像素子のサイズの小ささ、本体の薄さという、カメラ専用機に対する絶対的なマイナスを、ソフトウェア処理と焦点距離の異なる複数のカメラを搭載することで補い、もはや数年前のコンパクトデジタルカメラと同じか、それ以上の性能になっている。
それを感じたのは、スマートフォンのカメラで7-8年前に撮った写真と最近撮った写真を見比べたからだ。7-8年前のスマートフォンのカメラも、スマートフォンの画面で見るなら満足できるレベルの写真が既に撮影できたが、それでもやはりピントの甘さ、暗所性能の低さが目立った。機種にもよるが、その頃はまだ、コンパクトデジタルカメラの方がいい写真が撮れていた。それが最近では、カメラメーカーの多くがコンパクトデジタルカメラを諦めて新機種をほとんど出さなくなるほど、スマートフォンのカメラ性能が上がっている。
一部にマニュアル撮影が出来るスマートフォンもあるが、スマートフォンのカメラは基本的にフルオートで撮る仕様が多い。つまり撮影する人がいじれる項目はカメラ専用機に比べて極端に少ない。2010年代初頭まではカメラメーカーも、シャッターを押して写真を撮るだけのフルオート機を、入門用や写真が撮れればOKという人向けにラインナップしていたが、スマートフォンのカメラ性能が上がった影響で、2015年くらいまでにその種の機種はほぼ全滅、そして最近はとうとう、マニュアル撮影出来るタイプのコンパクトデジタルカメラすら新たな機種がリリースされなくなった。
つまり、昨今のカメラ事情は、スマートフォンかレンズ交換式か、と両極化している。レンズ交換式にも、以前は初心者をターゲットにした簡単操作機が多く存在したが、その層は最早スマートフォンに奪われている為、現在カメラメーカーの主戦場は、ある程度シリアスに写真を楽しむ人向けのカメラ、つまり高級志向の機種になっている。
シャッターを押すだけで誰でも簡単にそれなりに素晴らしい写真が撮れるスマートフォンにも、間違いなくよいところはある。でもそれは、逆に言えば、同じものを同じスマートフォンで撮ると、誰が撮っても似たような写真になりがち、ということでもある。写真に限らずインスタントなものは追求しがいがない。
変化球的に、縛りとしてインスタントなカメラを使う、という追求のしかたもあるが、表現の豊かさで言えば、間違いなくマニュアル撮影が可能なカメラ、そしてレンズ交換式のカメラの方が上だ。純粋に写真を撮る、ということに関して言えば、その楽しさ奥深さは、10万円以上する最新のスマートフォンよりも、中古で1万円以下で手に入る7-8年前のマイクロフォーサーズのレンズ交換式カメラの方が間違いなく上だ。レンズ交換式カメラなら、カメラ本体が同じでも、撮る人それぞれ選ぶレンズがまず異なるし、レンズ交換式カメラでなくてもマニュアル撮影できるカメラなら、シャッタースピード、絞り、ホワイトバランスの設定など人それぞれ差が出るので、同じカメラで同じものを撮影しても出来上がる写真にも差が出る。
スマートフォンの写真でも、撮影後にかけるエフェクトなどで人それぞれ差が出るが、それはデジタルカメラのエフェクト機能や、現像ソフト・レタッチソフトを事後的に使用するのと同じようなことであり、だから、純粋に写真を撮る、ということに関して言えば、と前置きした。
料理などにも同じことが言えるのではないか。インスタント食品は面白くない。能書き通りに作れば、誰が作っても同じ味ができる。確かに美味しいが、でもそれだけだ。勿論インスタント食品に一手間加えたアレンジというのにも価値はあるが、それに大金を払おう、という人はそんなにいない。人が大金を払ってでも食べたいと思うのは、用意するのに手間や時間がかかる食材、それを使っていろいろ試行錯誤した結果に生まれた料理だろう。つまり、人はそこにかかった手間暇に価値を見出して感動するものだ。
モーフィングというSFXがあって、2つの異なる画像や映像を、その中間を人為的に生成することで、自然に変化させる映像効果の技術だ。今ではフリーソフトで気軽にモーフィングを使うことができるが、1990年代の始めにモーフィングが世に出回り始めた頃は、1秒モーフィングするのに○○億円なんて言われていた。マイケル ジャクソンのブラック オア ホワイトのPVは、最後の約45秒くらい次々と人の顔が移り変わっていく。その表現がモーフィングを世に知らしめた。このPVにおけるモーフィングは、当時のマックを使って1コマずつ加工しているらしく、巨額の予算が必要だったことだろう。
Michael Jackson - Black Or White (Official Video - Shortened Version) - YouTube
これも、そこに大きな手間と時間が割かれているから多くの人の関心を惹いた。もしこれが自動化された技術によって生み出されたモーフィングだったとしても、自動化技術の開発にかかった手間暇が人の関心を惹いただろうが、それが一般化し、手間暇かけずに同じことができるようになれば、同じことをしてもそれでは同じだけの関心を惹くことは出来ない。やはり人は手間と暇に価値を見出す傾向がある。
人は手間と暇に価値を見出す、ということは、手間と暇がかかっていないもの/ことに価値を感じにくい、ということでもある。日本で女性が賛成権を手に入れたのは1945年のことだ。直接的には敗戦とアメリカ統治によってもたらされたものだが、戦前戦中の日本にも女性賛成権、つまり本当の意味での普通選挙を求めていた人達がいて、長い手間と時間をかけて手に入れたもの、と考えることもできる。男性の普通選挙も、明治/大正の民権運動の結果、1890年の日本で最初の選挙が行われてから35年後の1925年にようやく、選挙権に関する納税額規定を撤廃した普通選挙法が制定された。
日本国民が本当の意味での普通選挙を勝ち取るまでに、最初の議会選挙から数えても55年の時間と手間がかかっていて、本当の意味での民主主義が1945年に初めて実現したこともあって、それに少なくない人がかけがえのない価値を見出していたことだろう。普通選挙、民主制のない時代を知る世代が有権者の多数派だった昭和期は、日本の投票率は概ね70%前後で推移していたが、その世代が減り、選挙権は長い年月と労力の末に獲得した権利だということを、座学で学ぶだけの世代が増えると共に、投票率は下降の一途を辿り、現在は50%台で推移している。
権利は行使しないと奪われてしまう恐れがある。日本国憲法では、権利=生まれながらに万人が持っているもの、と規定しているが、決してそれは当たり前ではない。特に選挙権・参政権は重要で、それを行使しないと独裁政権が生じる恐れがあって、独裁政権が成立してしまったら、一方的に憲法規定を変えられて権利を奪われかねない。
誰もが今一度、普通選挙・参政権・民主制は莫大な手間暇の結果手に入れたもの、ということを思い出すべきだ。