スキップしてメイン コンテンツに移動
 

野党による政府与党の批判が目立つのは当たり前

 「野党は批判ばかり」という主張をしばしば目にするが、いろいろと間違っているし、短絡的な話ばかりで、もしそれに多くの人が騙されてしまうんだとしたら、日本の有権者の政治的なレベルは、まだまだ先進国とは言えない程低いんだろうと言わざるをえない。

 立憲民主党 逢坂 誠二はこのように反論している。

 それでも「野党は批判ばかり」に見えるんだとしたら、それはメディアに取り上げかたによるところも大きい。法政大学教授の上西 充子は次のように指摘している。

「菅首相が反論し、野党が反発」…この新聞見出しに、違和感を覚える理由(上西 充子) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)

 政府与党、それに近しい人達の場合は「反論」という言葉を使い、野党やそちら側に近い人達の場合は「反発」と表現すれば、前者は論理的で後者は感情的、という印象を醸しかねない、という話だ。つまり、メディアの取りあげ方が、野党が感情的に文句を言っているように演出している側面がある、と指摘している。

 そして、野党が政府や与党を批判する場面が多く目に付いたとしても、それはあまりにも当然のことでしかない。日本には、というか民主主義の国には三権分立という構造がある。三権分立とは、行政(日本では内閣)、立法(議会)、司法(裁判所)それぞれが暴走しないようにお互いに監視牽制し合う構造で、議会が内閣、つまり政府の不適切な行いを指摘/批判するのは当然のことでしかない。
 日本では、中央政治に関して、首長を有権者が直接的に選ぶのではなく、有権者が選んだ国会議員の中から首長、つまり内閣総理大臣が選ばれる間接民主主義であり、議会第一党トップが行政のトップである首相・内閣総理大臣になる為、与党は行政と一体化しがちだ。だから、行政・内閣を監視/批判することの主体は自然と野党になる。なので野党による政府や与党批判が多く目に付くのはごく自然なことでしかない。

 これは、「警察は犯罪者を捕まえようと粗探ししてばかり」みたいな話だ。勿論警察には防犯という役割もあるのだが、犯罪の捜査と犯人/容疑者の特定と確保は間違いなく警察の主な業務であり、警察が犯罪が起きないように監視したり、犯罪捜査ばかりしているのは当然で、それを「○○ばかり」と言うのはあまりにも滑稽だ。
 重要なのは批判や指摘などが多いか否かではなく、その内容が妥当か否かだ。警察が犯罪捜査ばかりやるのは当然だが、不適切な”捜査ばかり”やっていたら「不適切な捜査ばかり」と批判されるのも仕方がない。つまり「野党は妥当性のない批判ばかり」という指摘がなされ、指摘されても仕方がない状況があるなら理解もできるが、多くみられるのは「野党は批判ばかり」という話であり、批判内容の妥当性を問うているのでなく、批判が目立つこと、多いことを揶揄しているにすぎず、それは妥当な指摘とは言い難い。
 政府や与党が批判/指摘されても仕方がないことばかりしていたら、批判/指摘の量が増えるのは当然である。


 維新の会は、先月行われた衆院選にて「文句だけの立憲民主党」なんて言っていた。

 審議拒否というが、昨年/今年と国会召集の要求に応えずに議会を閉じたままにしていたのは内閣と与党だし、維新はそれについて政府や与党に与する態度だった。また「ゴシップで足を引っ張る」とは何について言っているのかも定かでなく中傷でしかない。「単に文句ばっかり言っている」も同様で、これは「野党は批判ばかり」という言説を更に劣化させたものでしかない。

 もし維新が、文句と批判の区別がつかずに、批判の意で文句という文言を使っていたとしても、前述の通り野党の活動で政府や与党の批判が目立つのはごく自然なことでしかない。一方で、立憲民主党は文句だけ、と言っている維新はどうか。維新こそ立憲民主党や共産党の文句ばかりではないか。選挙中は自民党批判も行ってはいたようだが、選挙期間外で目立つ維新の言説は、政府や与党の不適切な行為に対する批判よりも、立憲民主党や共産党などへの妥当な批判とは言えない文句ばかりだ。


 それは、この数日話題になっている文通費の件からも明らかだ。この件の顛末は次の記事で確認してもらいたい。

 この件について、維新の会元代表で今も維新びいきが激しい橋下 徹は、このようにツイートしている。

 批判するなら、主体的に政治を動かせる政府と与党が妥当な筈なのに、議会第一党の自民党ではなく、他の野党の方に矛先を向けているのはあきらかだ。しかも、文通費は政治活動に使えないのに、維新は議員から文通費を寄付という形式で集めて、政治活動に流用しているという指摘がかなり前からあるし、文通費よりも巨額でその妥当性に対する指摘も少なくなく、共産党に関しては受けとりを拒否している政党助成金のことには一切触れない。

 このように、維新のような妥当性の疑わしい批判、批判とは言えない中傷や文句ばかりなら、「野党は批判ばかり」いや文句ばかりと言われても仕方がない。だが、三権分立と間接民主主義という制度の構造上、野党による政府や与党の批判が目立つのはごく自然なことで、現在の状況で、立憲民主党や共産党を念頭に「野党は批判ばかり」という人達、メディアは、三権分立のなんたるかを理解していない、ということでしかない。
 野党は批判ばかり、という話のおかしさは、次の記事でも適切に指摘している。



 トップ画像は三権分立を表現しているが、図柄を行政側に傾けることで、現在の日本の三権分立が歪んだ状況を示している。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。