以前から DOMMUNE のDJ Mix配信は時々見ていたが、新型ウイルス危機以降視聴する回数が増えた。TV報道に対する不信感が頂点に達してTV報道だけでなく、TV全般を殆ど見なくなったことも、DOMMUNEを見る回数が増えた理由だろう。テレビをつける変わりに ”ながら見” する機会が増えたのだ。
そんなことから今では、配信がある日は積極的に配信を見ている。勿論興味があまり湧かないテーマだと途中で離脱することもある。最近は配信を見ながら、配信サムネイルをベースにして短い動画に加工してツイートする、という遊びを始めた。
以前から動画編集はやっていたので基本的なことは理解しているのだが、アニメーション的な表現はそれほど経験があるわけでもなく、思い描いた動きを再現するには、何回も微調整が必要になることもしばしばだ。専門学校でアニメーションについて学んだとか、制作会社に入って実務をこなしたなどの経験があれば、微調整などしなくても思い描いた通りの動きをつけられるんだろうが。中々そうもいかない。
更なる微調整が必要な動画は、いわば失敗作だ。失敗を何度も繰り返して(と言っても遊びなので多くても10回以下だが)、その結果満足できる結果、自分が自分に及第点をつけられる結果に至る。要するにそれは ”失敗は成功の基”という奴であり、経験を積む、ということでもある。身近に先輩がいると、その人のノウハウを教えて貰うことで、その失敗を積み重ねる時間をスキップできる。
自分は誰かに動画編集を習ったわけではなく、ほぼ独学で覚えたが、自分が動画編集できているのは、経験がなくてもとりあえず使えるレベルの動画編集ソフトを誰かが作ってくれたからだ。もしそれがなければ自分で動画編集ソフトをつくるところからやらないといけない。つまり、今自分達が何気なく使っている道具や知識は、先人たちが研究・開発したもので、そこにもトライアンドエラーがあったわけだ。言い換えれば、自分が犯した回数以上の失敗の積み重ねの上に、自分の、というか全ての人の活動があり、生活がある、と言っても過言ではない。
人間が犯してはならないのは、失敗すること、ではない。失敗を積み重ねた先に成功があり、言い換えれば失敗なくして成功はない。もし失敗を全くせずに、最初から思い描いた通りの結果が得られたのなら、それは単に相当運がよかったか、自分以外の誰かの失敗を基に成功が得られたか、のどちらかだ。
しかし、同じ失敗を繰り返す、の何の役にも立たない。いや、失敗の原因を突き止める為に2-3回同じ失敗を繰り返すことは、何の役にも立たない、とは言えない。しかし失敗に何も学ばずに、同じ事を漫然と繰り返して同じ失敗を繰り返すのは、間違いなく何の役にも立たない。ただただ時間を浪費する行為でしかない。
なぜ学校で歴史を学ぶのか、という問いに対する一つの答えがここにある。玉川大学 通信教育のWebサイトに、
「過去の歴史を学ぶことで,その知恵を現在・未来に活かすことができる」「偉人の生き様を理解することで,自分自身の成長に結びつけることができる」「歴史を学ぶことで教養の幅が広がり,判断力・決断力を培うことができる」。いずれも違う話のようですが,実は全て同じです。社会システムについて理解を深めれば,それが自分の判断・決断のベースになるという理屈を,様々な形で表現したに過ぎません。
と書かれている。
言い方は様々だろうし、それぞれの言い方、主張する人によって、微妙なニュアンスは異なるだろうが、歴史を学ぶことで、人類がこれまで犯してきた失敗と成功を知識として身に着け、現在の自分の活動や生活をする上での糧にすることができる、ということだ。歴史を学ばなければ、過去に既に誰かが犯した失敗、人類が犯した致命的で社会的な失敗を再び繰り返すことだってありえる。いや、それを既に何度も繰り返してきた。だから歴史を学ぶ必要がある。いや、歴史 ”に” 学ぶ必要がある。歴史に学ばずに過去に起きた失敗・過ちを繰り返すことは愚の骨頂だ。失敗を繰り返さない為にはまず歴史を学ぶ必要があるし、過去の事象を適切に評価検討しなければならない。
過去の事象を適切に評価検討することができなければ、歴史に学んでいるつもりでも同じ失敗を繰り返すことになるだろう。些細な失敗ならそれでもよいが、致命的な失敗だとそうも言っていられない。たとえば、戦争に核兵器を用いたことの評価を間違えて、再び戦争で核兵器を使うとか、原発事故の評価を間違えて、再び原発事故を起こすとか。
朝日新聞と毎日新聞の12月8日の社説も、日米開戦80周年という観点のみで、1941年12月8日が「大日本帝国の東南アジア侵略の始まり」という事実にまったく触れていない。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) December 9, 2021
東南アジアへの「侵略」と「加害」に触れることは、今の日本ではタブー? そう思わざるを得ないほど異様な「日米開戦」偏重報道。 pic.twitter.com/SGiFzPEZl5
今朝このツイートがタイムラインに流れてきた。確かに日本では、75年前の戦争については1941年から語られることが多く、日中戦争を度外視しがちだ。更に太平洋戦争についても、日本が東アジアや東南アジアで侵略行為を行ったということにはあまり目が向けられず、軍首脳の無能によって多くの兵が無駄死にさせられたとか、制空権を奪われた結果本土が空襲にさらされて多くの市民が命を落としたとか、被害者の立場で語られることが多い。
勿論、日本兵も市民も、無能な旧政府と軍首脳によって翻弄された被害者であるし、米軍による市街地への無差別な空襲・原爆投下による被害者でもある。しかし同時に、日本兵も日本の市民も、侵略戦争やそれに至る歩みに加担した加害者の側面もあるわけで、それを矮小化するのは適切な歴史評価とは言い難い。
戦争を二度としてはいけない、という話に関して、戦争経験者は自身が体験した悲惨な現実について語りがちだ。勿論それもそれで重要なのだが、戦争は悲惨なことが起きるからしれはいけないのと同時に、侵略戦争をしてはいけない、という至極当然のことも決して忘れてはいけないし、寧ろそちらの方が重要かもしれない。
現在自民政権は「敵基地攻撃能力」という呼称で先制攻撃を正当化しようとしているが、なんでそういうことが起きるのか、そしてそんな政党がなんで何年も与党に選ばれ続けているのかと言えば、それは間違いなく、75年前の戦争について日本人が適切に評価検討出来ていないからだ。
歴史の評価を誤れば、再び過去の失敗を繰り返すことになりかねない。しかも今失敗が繰り返されるかもしれないと懸念されているのは、日本が再び戦争を起こすかもしれないという重大な失敗だし、優しく言っても再び戦争に巻き込まれることになるかもしれない、という失敗である。
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