働く、をテーマにこの投稿を書こうと思い、それに沿ったトップ画像を作ろうと思って、フォトストックサイト・Unsplash にて "Work" で検索してみたところ、自分が想定していた "働く" とは全く異なる、デスクワークを連想させる写真ばかりが並んだ。
PCを使う仕事もあるし、オフィスで会議や打ち合わせを行うことだって間違いなく仕事で、"働く"
に該当することは確かだ。しかし、プリミティブ・原始的な意味での "働く" は、どう考えても肉体的な労働の方だろう。
原始的な労働で最も大部分を占めたのは、間違いなく食べるものの確保だろう。狩猟にせよ農耕にせよ、どちらも食料を確保する為の行為・労働だ。それ以外にも、衣食住のうちの衣と住を確保する行為も労働だっただろうが、やはり大部分を占めたのは食の確保だろう。
Work という単語には作品の意もあって、その原義は "作る" で、つまりは生産のようなニュアンスから働くの意に繋がっているんだろう。確かに古くから存在する音楽や文字による表現、絵画などにも作品の側面はあり、それらは主にデスクワークで製作されるものではあるが、近代以前、生活に関わるものでも芸術でも作る行為の大半には肉体的な労働が伴っていたはずだ。それが今や Work という単語が象徴するのは、肉体的な労働ではなく、ホワイトカラー的な頭脳労働になっていることに驚いた。
これは決して Unsplash にだけ見られる傾向ではなく、Google画像検索で "Work"で検索しても同様の傾向が見られる。ちなみに、肉体的な労働に関する画像の検索結果を得たいなら、Work ではなく "Labor" で検索すると、それが得られる。
高校卒業後、進学も就職もせず、毎日自転車で自宅近隣を回る生活をしていたら、頻繁に職務質問を受け、ある時警察官に「そんなことしてないで働きなさい」と言われた、という話を聞いて、
働くの定義ってなに?
と感じた。毎日自転車で自宅近隣を回る、という行為・活動は働くに該当しないのだろうか。
たとえば、テレビゲームをすることは、大半の人にとっては働くことではなく娯楽の一つだろうが、テレビゲームをすることが仕事になっている、働くに該当するケースは間違いなく存在する。すぐに連想するのは所謂プロゲーマー、eスポーツプレイヤーなどだ。彼らはゲームをすることが仕事であり、ゲームをすることの大半は遊びでなく仕事である。プロゲーマーでなくてもゲームをすることを仕事としている人はいる。ゲーム実況者なんてのもその一種だし、プロゲーマーやゲーム実況という仕事が生まれる以前も、ゲーム雑誌の編集業務などでは、勿論雑誌の紙面を作る為、という関節的な行為ではあるが、ゲームをすることは仕事の一部だった。このようなことから分かるのは、概ね、一般的には娯楽・遊びと認識されることでも、金銭的利益・収入を生む行為であれば、それは仕事・働くになりえる、ということだ。
しかし、では働くの定義は金銭的利益や収入を生むかどうかで定義できるかと言うと、決してそうとは言い難い。プロゲーマーは、たとえばスポンサーがついていれば、全ての活動が、というよりも存在していること自体が働いていることにもなりそうだが、スポンサーがついていないプロゲーマーというのもあり得る。スポンサーがついていないプロゲーマーは、個別のプロモーション案件などによる報酬と賞金の出る大会で得られる賞金がその収入になるだろう。では、そのようなケース以外でゲームをすることは果たして遊びだろうか。勿論遊びでゲームをすることもあるだろうが、そのような人がゲームをすることは、大会に向けた練習だったり、プロモーション案件を得る為の準備活動だったりすることが多いだろう。つまり、金銭的利益に繋がる可能性はあるが、必ずしもそれが保障されていなくても、働くに該当するケースはある。
それはゲーマーに限った話ではない。起業家が金銭的利益を得ることを目的に新しい事業を起こす場合、その大半最初のある期間は赤字である。つまり金銭的利益を生む可能性はあっても、必ずしもその事業が成功する保障はどこにもなく失敗して赤字だけが残る、つまり金銭的利益や収入を生まない場合もしばしばだが、事業が失敗しても、それを理由に働いていないとは言わない。もし金銭的利益を得られなかった場合は働いていないことになるなら、経営破綻した企業に従事していた人の多くは働いていないことになりそうだ。
さらに言えば、公務員は基本的に金銭的利益を生まない。税収によって収入を得て生活を成り立たせている、という意味で個人単位では労働の対価として金銭的利益を得てはいるが、行政機関は営利目的ではないので、組織単位では金銭的利益を生まない。ボランティア団体やNPOなども同様に金銭的利益を目的として活動はしていないが、そこに従事する人は働いていないとは言わない。つまり、金銭的利益や収入を生まなければ働いているとは言えない、ということは断じてない。
その最たる例が主婦業・主夫業だろう。家事や育児は明らかに金銭的利益や収入を生まないが、では家事や育児だけをしている人は働いていないのかと言えばそんなことはない。家事や育児だって労働の一種であり、それを専業としている人は働いていないなんて言ったら、今ではとんでもない非難を受けることになる。つまり、やはり金銭的利益は、働くに該当することの条件とは言えない。収入を得ること=働く、ではないと断定できるだろう。
ならば、警察官が、毎日自宅近隣を自転車で回っている人をつかまえて(逮捕拘束という意味でなく、職務質問しての意)、「そんなことをしていないで働きなさい」なんて言うのは、大雑把に言えば、専業主婦に職質して「そんなことをしてないで働け」と言うのと大差ないはずだ。
しかし日本社会では、勿論日本以外にもそんな傾向はあるんだろうが、特に日本では、収入を得ること=働く、という認識が強く、漫画家を目指してマンガを書いていても遊んでいると言われがちだし、歌手や音楽家を目指して創作活動をしていても遊んでいると言われがちだし、収益化を目指してYoutubeに動画投稿をしていても同様に遊んでいると言われがちだ。
更に付け加えると、その延長線上に専業主婦は働かずに遊んでいるのような認識が少なからずあって、外に出て働く人、主に夫よりも、専業主婦、主に妻が低く見られる傾向が確実にある。日本全体が貧しくなった現在、共働き世帯が増え、完全な専業主婦は少なくなったし、女性地位向上の機運が以前より高まっている影響で、そんな認識を持つ人は確実に減ってはいるが、それでもまだ一部にそのような認識が残っている。
現在の日本の憲法は、戦後に作られ1947年に施行された日本国憲法だ。日本国憲法では27条で「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」と勤労の義務を定めている。1947年当時はまだ、女性の大半は結婚したら専業主婦になる時代であり、つまりこの条文の背景には、家事や育児などは勤労であり、働くに該当する、という認識が確実にある。でなければ、当時女性は国民と認めていないか、若しくは義務を果たしていなかったということになる。基本的人権の尊重を謳っている日本国憲法が、女性を国民と認めていなかったとは考えられないし、家事や育児が勤労に該当しないという前提ならば、この条文にはならなかっただろう。
を見れば分かるように、働くの解説の中に「生計を維持するために、一定の職に就く」とある。生計を維持という部分は非常に重要だし、職に就くというのも、主婦業という言い方で考えれば整合性を維持できるかもしれない。しかしその説明では、事業に失敗して生計を維持できない状態に陥った起業家などは働いていなかったことになってしまう。
憲法で用いられている勤労という言葉の解説を調べてみると、そこにも「賃金をもらって一定の仕事に従事すること」とあるが、それとは別に「心身を労して仕事にはげむこと」とも書かれていて、前者は、被雇用者として、という限定された意味での勤労であることが分かる。主婦も事業主も賃金を誰かに貰うわけではないからだ。
つまり、無収入=働いていない、という考え方は偏見の一種だ。勿論、生計を立てることを疎かにすることはあまり褒められるようなことではないが、生計の立て方は人それぞれだし、プロゲーマーのように、一般的には遊びと言われるような行為で生計を立てる人もいる。しかしゲームは遊びだという偏った認識に取りつかれている人にしてみれば、ゲームで生計を立てていても遊んでいると言うだろう。それはまさに偏見でしかない。