日本型教育はとにかく型に嵌めたがるものだ。規則は規則だからと、規則の意味や妥当性を考えるな、とにかく守れ、と言いがちで、その規則は何の為にあるのかを問うても、合理的な説明ができない教員・学校・教員委員会、そして親があまりにも多い。
規則は基本的にはない方がよい。全ての人が性善性を持ち合わせていて、個人間に利害関係が生じた場合に譲り合えるなら規則はいらない。規則がなくてもケースバイケースで最善の対応/判断が出来るはずだ。しかし、それは実現することのない理想論でしかなく、だから最低限の規則が人間の社会には必要だ。
つまり、規則とは問題を減らすための道具であり、規則は規則だから守るべきなのではなく、問題を生じさせない為に規則は守られるべきなのだ。社会の状況は時と共に変わるもので、その規則が出来た時は妥当だったとしても、時の流れとともに状況に合わなくなってしまう規則もある。そのような規則を「規則だから守れ」というの、はあまりにも杓子定規であり合理性を欠いている。
10/26の投稿で、システムに用いられるハードウェアは経年劣化するし、システムを取り巻く環境は常に変化するので、管理/保守の全く必要ないシステムなど、時間が止まった世界でもなければありえない、という話を書いたが、規則もある種のシステムであり、状況との乖離が激しくなればメンテナンスが必要になる。規則がメンテナンスなしに使えるのであれば、立法府、つまり国会など必要ない。しかし、世の中の変化に対応する為に、毎年50から100程度の法案が国会で成立する。
法治国家では、基本的に誰もが法に従うべきだが、法を妄信して隷属するようでは本末転倒である。
コトバンクでは、本末転倒とは、根本の大切なことと末端のつまらないこととを取り違えること、と説明されている。つまり、些細なこと、大して重要ではないことに意識を奪われて、本当に重要なことを疎かにする、のような意味だ。
この投稿の冒頭で、型に嵌めるという表現を使った。型に嵌めるの意味は、そのものの個性や独創性を認めずに、すべてを同じようなありさまのものにする、であり、ネガティブな側面がかなり強い。
しかし、型に嵌ることが全て悪いかというと決してそんなことはない。たとえば、空手などの武道には型・形というのがある。武道の型は稽古に用いられる無駄を排除した動き、のようなもので、それを習得することで実戦能力を効率的に高められる、とされるものでもある。武道以外のスポーツや競技にも、正しいとされるフォームがしばしばあり、それを習得することが上達への近道だとされている。但し、武道のような長い歴史的背景のないスポーツの場合、正しいとされるフォームが変化していくこともしばしばだ。また、武道もスポーツも、明確か曖昧かは別として流派やそれに準ずるものが存在し、正しいとされるフォーム・型が幾つか存在する場合も少なくない。
つまり武道における型・形、スポーツにおける正しいとされるフォームとは、先人たちが積み重ねてきた経験を合理的に、そして短時間で受容する為の方法であり、本来それは上達・習熟の為の道具だ。しかし、たとえば空手では形が演舞としてそれ自体が意味を持ち、更には競技化されているように、本来は上達や習熟という目的を達成する為の方法・道具だったものそれ自体が目的化する、ということは結構ある。
空手の形は演舞のような意味が付加されており、決してネガティブな側面ばかりが強いわけではないが、本来は上達の為の手段・方法だったのにそれ自体が目的化した、ということに関して言えば、これも本末転倒と言えるだろう。正しいとされるフォームにこだわり過ぎて、スポーツを楽しむことよりもそれを身につけることが主目的になってしまうのは、まさに本末転倒だ。本来はそのスポーツを充分に楽しむ為に、正しいとされるフォームを身に着けるものなのだから。
このような本末転倒の例として一番分かりやすいのはあまりにも偏った現代の行き過ぎた資本主義だ。その結果、10億ドル以上の資産を持っているたった2200人が、全人類の6割の資産よりも多くの富を独占している状態になっている。本来、資本、つまりお金は、快適な生活を送る為、自分がやりたいことをやる為の手段であり道具なのに、お金を稼ぐこと自体が目的化しているのが現代の資本主義社会である。
近年、改憲改憲と言っている人達も本末転倒の典型的な例である。維新の馬場 伸幸は、12/16の衆院憲法審査会にて、来夏の参院選と改憲の国民投票を同日実施すべきだ、と主張したそうだ。
維新、参院選と同日の改憲国民投票を要求:東京新聞 TOKYO Web
憲法の何をどう変えるのか、が決まっていないのに、国民投票で何を問うつもりなのか。先に決めるべきことは何をどう変えるかだ。これこそまさに、改憲派は改憲自体が目的化してしまっていることを示している。何をどう変えたいのか、憲法を変えて何を実現したいのかを具体的に示さずに、変えるか変えないかを問う、なんて全く理解できない。
維新の松井も同じことを10月の衆院選直後に言っていて、維新が如何に改憲を政争の具にしようとしているか、がよく分かる。
11/9の東京新聞の記事を見てもわかるように、なぜか日本では改憲の内容には触れずに、単に改憲派/護憲派という分け方がされる。
維新・国民が「改憲議論を加速」「第3極」で連携確認:東京新聞 TOKYO Web
護憲派とは、日本の憲法は現状のままでよい、変える必要はない、という考え方であり、護憲で一致できるのは分かる。しかし改憲派は、何をどう変えるか、が一致しなければ協力などありえないはずだ。そもそも改憲派という括り自体がおかしい。何をどう変えるか、をすっ飛ばして改憲で一致する、ということは、まさに憲法をいじることが目的化していることの証拠である。
何をどう変えるか、を積極的に示さずに、改憲ばかりを叫ぶ政治家は総じて詐欺的だし、そのような指摘をせずに改憲に関する記事を書くメディアも、優しく言っても不適切だし、厳しく言えば詐欺的行為への加担をしていることになる。
憲法を改正したいなら、まずは、何をどう変えるか、を明確にすべきだ。自民党はかなり前に草案を出しているが、それはハッキリ言って戦前戦中回帰以外のなにものでもない。全く容認しかねる。維新も草案は作ってはいるが、改正が必要な理由として上げているのは、どれも法改正で解決できることばかりで、憲法を変える合理性に乏しい。国民民主に関しては何をどう変えるかすら明確でない。
改憲によってなにを実現したいのか、ではなく、改憲自体が目的化してしまっていれば、具体的な議論が進まないのも当然だ。
トップ画像には、日本国憲法・憲法記念日のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや を使用した。