ミニバンやワゴンなどの多人数乗車の車種が嫌いだ。車は好きだし運転も大好きで、長距離運転など寧ろ「させてくれ」と思うくらいだ。だが、車に乗る場合の多くは自分1人、若しくは助手席と合わせて2人が殆どで、多人数乗車出来る車種が必要なのは年に数回だ。ならば必要な時はレンタカーを借りればよい、と思っている。
そもそもセダンやクーペなどの形状が好みである、ということもあるが、ミニバンやワゴンを持つと、何かにつけてあからさまに移動手段や貨物車として利用されがちなことも、ミニバンやワゴンが嫌いなこと、所有する気にならないことなどの理由だ。勿論、ミニバンやワゴンが好きな人のことを否定するつもりも、車体形状としての利便性を否定するつもりもない。ただただ便利に使われるのが嫌なのだ。運転するのは大好きだが、運転手のように利用されるようなことは大嫌いだ。
小説家の平野 啓一郎がこんなツイ―トをしていた。
東京で自家用車ナシ生活をしてると、車移動中に、子供が大人たちの会話を聞いてたり、カーステの大人の音楽を聞いてたりする経験がないな、と実家に帰省して感じた。僕は地方育ちだったので、結構それで色んなことを知った気がする。意外と心に残ってるちょっとした会話や音楽がある。
— 平野啓一郎 (@hiranok) January 10, 2022
平野が言うように、車というのはある意味で部屋の様な空間だ。東京では自家用車を持たない人が増えた。2000年代からその傾向はあったが、2010年代以降更に顕著になったように思う。温暖化への影響を考えたら、それぞれが自家用車を所有するよりも、基本的には公共交通機関を移動に利用して、必要な時だけレンタカーなどを使うのが好ましいんだろうが、現在の日本の都市部で自家用車を持つ人が少なくなったのは、環境問題に配慮してということではなく、収入が20年前と変わらないのに物価は上がっていて、自家用車を維持する余裕がなくなったから、という理由の方が多いだろう。
昭和中期までの日本の家庭は、茶の間・リビングに家族でいる時間が今よりも長かったのではないだろうか。勿論家の広さや間取り、各家庭の事情などでそれぞれ傾向が違ったのだろうが、個人の部屋はそんなになかっただろうし、テレビも大抵一家に一台だったろうし、家族が空間を共にする時間は今よりも長かったように思う。
高度経済成長期を経て1970年代頃から子供部屋なるものが徐々に当たり前になり、また1980年代以降ファミコンの普及と共に子供部屋にテレビが入り込んでいったことなどで、徐々に茶の間・リビングで家族が同じ空間を共有する時間が短くなっていったように思う。しかし、1990年代まで東京を含めて車は一家に一台が普通で、休日に家族で車に乗って出かけることも普通だった。つまり、家で家族が空間を共有する時間は減っていたが、移動中の車内で家族が空間と時間を共有する状況はあった。
車は誰かと時間と空間を共有する為のもの、という側面は確実にある。それは家族関係だけでなく男女関係でもそうだろう。ハンドルを握るとその人の本質が分かる、のようなことがしばしば言われるが、運転者だけでなく同乗者も同様で、車内で移動時間と空間を共有すると、その人となりが見えてくる。乗ってすぐにいびきをかき始めるような者は典型的な例だし、たとえば、ガムやアメ、飲み物の渡し方だけでも、運転者が口にしやすいように配慮して渡してくれるか、ナビのない頃で言えば、率先して地図を見てくれるかなどにも、その人の性質が滲む。
また、移動中の車内でおしゃべりがはずむか、音楽の趣味が合うかもとても重要なことだったように思う。趣味や好みが合うかどうかも重要だが、相手の趣味や好みを認める人か否か、のようなことを探るのにも、車内での時間と空間の共有は有効だったと思う。
2000年代に携帯電話によるネット接続が普及してから、助手席で携帯いじりに没頭してしまう人が現れだしたが、スマートフォンが普及して以降、SNSや動画サイトなどの普及以降、携帯電話で出来ることが増えた影響で、そんな人が更に増えているような気がする。都市部では自家用車の所有率が若い世代を中心に下がっていて、平野 啓一郎が言うように、そもそも車内で誰かと時間と空間を共有する機会も減っている。子どもの内に車内での振舞いを学ぶ機会が少なかったことの影響もあるかもしれない。
自分がミニバンやワゴンなどの多人数乗車が可能な車種が嫌いな理由はそこにもあって、車内で平気でスマホに没頭する人が少なくない。だから運転していると運転手をやらされている感が漂うケースが多い。
勿論、職業運転手ならそんなこと思わないんだろうが、プライベートで車を運転しているのに、運転手をやらされている気分にはなりたくない。
トップ画像には、Vw ブジ バス - Pixabayの無料写真 を使用した。