実際には、信長の野望や三国志、SDガンダム ガシャポン戦士など、それ以前にも体験してはいたが、初めてシミュレーションゲームだと意識してプレイしたのはシムシティだった。スーパーファミコン版がよく知られているが、それが出る数年前に、裕福な友人の家でPC-88版だかPC-98版だかをやったのが初めてだった。
シムシティは、プレイヤーが市長となって街を発展させていく、都市計画シミュレーションゲームである。最初のバージョンが発表されたのは1989年で、現時点での最新版は、2014年に iOS/Android 向けにリリースされた、SimCity BuildIt のようである。
SimCity は シムシティであって、SumiCity / シュミシティではない。と言うのも、日本語ではしばしばシミュレーションがシュミレーションと誤記・誤読されるので、どちらが正しいか忘れてしまった時は、シムシティとその綴り SimCity を思い出せば、シミュレーション が正しいとすぐに分かる、ということだ。
Simulation をシュミレーションと読むのは明らかな誤読である。それは英語の発音に鑑みれば明白である。また、荻原をはぎわらと読むのも誤読である。はぎわらは萩原であって荻原ではない。荻原はおぎわらでしかない。同様に、訂正云々を、ていせいでんでん、と読むのも、怪我を、かいが、と読むのも明らかな誤読だ。云々はうんぬんとしか読めないし、怪我もケガとしか読まない。
しかし、「私はあなたのように頭がよくない」という文章について、そう言った側が、私はあなた程頭がよくない、という意味で言っていたとしても、この文章では、私はあなたと同様に頭がよくない、とも解釈出来てしまうので、聞いた側がそのように解釈したとしても、それは決して誤読ではない。
だがSNSなどを見ていると、私はあなたのように頭がよくない、のような幾つかの解釈が出来てしまう文章を書いておきながら、それを読んだ側が自分の意図と異なる解釈をすると、誤読された!、と言い出す人が結構いる。荻原をはぎわらと読む誤読は、明らかに読み手に落ち度があるが、複数の解釈ができる文章については、書いた者の意図とは異なる解釈を読み手がしたとしても、それはある意味では誤読かもしれないが、読み手に落ち度があるとは言えない。寧ろ、明快な文章を書かずに誤読の余地を作った書き手に、意図が伝わらなかった落ち度、誤読が生じた落ち度がある、と言えるだろう。
たとえば、「私はあなたのように頭がよくない」という文章の前後に、その文章が、私はあなた程頭がよくない、もしくは、私はあなたと同様に頭がよくない、のどちらかとしか解釈できないような明白な文脈、もう一方の解釈があまりにも強引・著しく不自然としか言えないような明白な文脈が存在しているならば、どちらか一方は明らかに間違った解釈・誤読と言えるかもしれない。だがそうではなく、どちらに解釈しても不自然とは言えないなら、誤読された!、と読み手に責任を求めるのは筋違いだ。
さらに言えば、敢えて誤読できるような表現、曖昧に濁した表現をしておいて、揚げ足を取るかのように、誤読された!、と言い出す人もいる。 また、「私がその表現の意図を説明しているのに、あなたはなぜそれを誤読と認めないのか!」のようなことを言う人もいるが、前述のような明らかな誤読でもない限り、読み手にも、その文章をどう受け取るか、解釈の自由がある。
たとえば、外国人などへの差別を強く匂わせる主張をしておきながら、「そんな主張は差別的だ」という指摘や批判を受けると、急に「そのような差別的な意図はない」などと言い出す人もいる。そして「私が差別をしているなんて言いがかりだ」「誤読された!」のようなことを言い出すのだ。何が言いたいのかと言えば、たとえ「○○の意図はない」と本人が言っていたとしても、そうとは限らない、ということだ。本当は意図があったとしても、事後的に「意図はなかった」といくらでも言えるのだから。もし本人が「○○の意図はなかった」と言っただけで、その意図はなかったということになるなら、いじめとは思ってなかった、セクハラ/パワハラとは思っていなかった、などと言うだけで、経緯や背景は関係なしに、意図はなかった、ということに出来てしまう。
というかそもそも、意図はなかった、なんて話にはほとんど何の意味もない。差別やいじめ、ハラスメントなどの大半は、やる側は大抵差別/いじめ/ハラスメントなんて思っていないし、弾圧や排除だって、大抵何かしらの方法で正当化した上で行われる。
そんなに大袈裟な話でなかったとしても、如何様にも解釈できる表現をしておいて、自分の意図が伝わらなかったら、誤読された!、と言いだしたり、若しくは意図した通りに伝わっていたのに、都合が悪くなったら、誤読だ!と言い始めるようなのは筋が悪い。勿論、話のある部分が曖昧であっても、前後の文脈などを勘案すれば明らかにその意図が分かるようなことについて、強引に捻じ曲げた解釈が行われる場合はその限りではない。
昨今、政治家や企業などが不適切な行為・表現に及んだ際に「誤解を招いた」と矮小化しがちだが、そのような状況も一般市民までが「誤解だ」「誤読だ」と強弁すれば責任転嫁・責任逃れが出来ると思ってしまう大きな理由かもしれない。