全く一切偏見を持たない人なんてのはありえない。なるべくフラットな視点で物事を捉えて考える人、思い込みが激しくて偏見を厭わない人のような差はあったとしても、完全にフラットな視点なんてのはありえない。客観的な視点とされるもののほとんどは、実際は誰かの主観である。大多数が共感する誰かの主観が、客観的、とされているケースがほとんどだ。私に偏見はない、と思っている人が一番危ない。
たとえばドキュメンタリー作品も、それはあくまでもドキュメンタリー作品であって、実際の事実とは異なる。ドキュメンタリー作品とはある事象について、作家や監督の視点で切り抜かれたものである。起きた事象の全部を描くことはできず、何を描いて何を描かないかは作家や監督が決める。
つまり、事象の何を描いて何を描かないか、その時点で少なからず演出が入ることになる。カメラが映しだすのはカメラが向けられたモノ/コトだけであり、カメラが向けられないところにも事実は存在する。その演出が適切か、演出が誇大で事実と大きく乖離していないか、ということが重要なのであって、ドキュメンタリーやノンフィクション作品には一切演出があってはならない、ということではない。寧ろ演出があって当然なのだ。
同じことは報道にも言える。多くの人は報道に演出はないと思っているかもしれないが、記者が何を書いて何を書かないか、という取捨選択をする時点で明らかに少なからず演出が加わる。更に言えば、どんな見出しを付けるか、どんな写真を添えるか、でも記事の印象は大きく変わったりする。また、災害中継でリポーターがヘルメットを被るかどうか、どんな場所からリポートするか、なんてのも演出の類だろう。
ドキュメンタリーやノンフィクション同様に、一切演出のない報道なんてのもありえない。人間というフィルターを通して、誰かの目や耳が認識した事実を文字化した時点で、カメラを通して映像化した時点で、少なからずそこに演出が加わる。
伝える行為以前に、何かを認知する際に、それを認知する人の経験や立場などによって、それぞれで認識が微妙に、場合によっては大きく異なる。たとえば、オバマが2016年にアメリカ大統領として初めて広島を訪問した際に
71 years ago, on a bright, cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.
71年前、雲ひとつない明るい朝、空から死が降ってきて、世界は一変した。 閃光と炎の壁が街を破壊し、人類が自らを滅ぼす手段を持っていることを証明した
と言ったが、この発言を、お前たちの国が原爆を落としたのに他人事のような言いぐさだ、と思った人もいるだろうし、当時の戦争相手国に対する、原爆による被害を悼む発言の冒頭だったことや、オバマは当時のアメリカ大統領ではないことから、フラットな視点だと判断した者もいるだろう。原爆による被害を悼む、という点も、世界最大の核保有国のトップが自分達を棚に上げて何を言っているんだ、と思った人もいれば、世界最大の核保有国のトップとしてよくぞ言ってくれた、と認識した人もいただろう。
前段で上げた例はどれも明らかに事実と乖離していると言えるような認識ではない。つまり、事実をどう認識するか、は人それぞれで違うし、認識が違うということは、伝え方もそれぞれで異なるということだ。
このような視点で捉えれば、みんなそれぞれ少しづつ、しかし確実にバイアス、広義での偏見を持っている。偏見が一切ない人なんてのは存在しない。
サンリオは、同社の人気キャラクター・マイメロディをデザインした自社監修のバレンタイン向け商品の一部について、発売を中止した。「女の敵は、いつだって女なのよ」などの文言が商品にデザインされていてれ、SNSで「性的偏見を助長する」などの批判が出ていた。
マイメロディのグッズ、発売中止 「女の敵は女」デザインに批判:朝日新聞デジタル
サンリオ、マイメロ商品発売中止 「性的偏見を助長」と批判:東京新聞 TOKYO Web
これらは、それに関する朝日新聞の記事と東京新聞(共同通信)の記事だが、同じことを伝えているのに、その内容には結構差がある。朝日新聞の記事には、デザインされた文言は、同キャラクターを使ったアニメの中でのセリフであることが説明されているが、共同の記事にはそれがない。また、朝日の記事ではデザインに批判的な声を多く紹介しているが、共同の記事ではデザインを容認する声を強調して紹介しているように見える。このような点から、それぞれの記者がどんな認識であるのかが見える。
これが批判を受けたデザインなのだが、朝日新聞の記事で紹介されている「(男らしさや女らしさといった)ジェンダーによる偏見を助長する」「時代遅れの価値観」という批判は理解できる。男は、女は、という所謂大きすぎる主語を使って対立を煽るようなことを言うのは、確かに時代遅れに感じる。「毒舌が魅力のキャラクターなのに」といった声もあるようだが、同キャラクターが子ども向けであることを考えれば、現在の感覚では余計に相応しくないようにも思える。
このようなことは、アニメが放送された2005-09年頃には容認されていたことかもしれないし、もっと言えば、2018年にも同様の商品が企画されたようだが、2018年の際にも、「女の敵は、いつだって女なのよ」はいかにも男性的な価値観だ、などの指摘はあったが、強い批判はほとんど見当たらず、商品の発売中止にもなっていない。もしも2018年に発売中止になっていたら、そもそも今回の商品企画もなかったはずだ。
この件について自分は、前述のように確かに時代遅れの価値観で、子ども向けのキャラクターには相応しくない企画だとは思うものの、ではその価値観が商品の発売を中止しなければならない程深刻かと言えば、それは過敏すぎると考える。気に入らない人は買わなければいい(子供に買い与えなければいい)だけで、気にならない人は買えばいい、そんなレベルだろう。
商品を企画したサンリオや女性向け雑貨店・ITS’DEMO(イッツデモ)は、悪いイメージが付かないようにと、商品の発売を中止する対応をしたんだろうが、撤回するくらいなら最初からそんな企画やらなければいいのに、と感じた。この程度は問題ない、と判断したから商品を企画して販売に至ったのであれば、少々批判を受けたくらいで発売中止にすることはないだろうから、発売中止という対応をしたということは、よく考えもせずに安易にそのような企画をやった、ということになるだろうから、寧ろ、このご時世によく考えもせずに安易に、女はー、男はー、なんて企画を無頓着にやった、という点にヤバさを覚える。
この件について、一部の所謂まとめサイトやまとめブログなどが、フェミが発狂した所為でマイメログッズが発売中止に追い込まれた、のような記事を掲載している。女はーとか、男はーなんてのが、所謂大きすぎる主語であるのと同様に、フェミニストがーなんてのも大きすぎる主語だ。所謂レッテル貼りというやつで、何かに対する反感を煽ってビューを稼ごうという、あまりにもはしたない行為にしか思えないし、女は-や男はー同様に、フェミがーなんてのも間違いなく偏見の類だ。
つまり、フェミが発狂した所為でマイメログッズが発売中止に追い込まれた、のような記事こそが、「女の敵は、いつだって女なのよ」のような話は性的偏見を助長する、というのをまさに証明してしまっている。
トップ画像には、回路基板 コンピューター プロセッサー - Pixabayの無料画像 と 脳 回路 知能 - Pixabayの無料画像 を使用した。