今月から、アニメ版 進撃の巨人 Final Season Part2 の放送が始まった。個人的には、Final Season Part2 ってなんだよ、と思っている。果たして今期で Final Season が終わるのかもまだよく分からないが、アニメ版 進撃の巨人は、これまでに第1期、第2期、第3期Part1、第3期Part2、そして 第4期Part1が製作放送されてきた。個人的には、今期は第6期と表現すべきだ、と思っている。
進撃の巨人で納得のいかない設定が1つある。この作品では、身体を傷つけることで、人間の意識を有したまま巨人化できる者が存在するという設定と、特定の人種について薬物投与によって無知性の巨人化させることが出来るという設定があり、無知性の巨人になった者が巨人化能力を持つ者を捕食することで、巨人化能力を得ることが出来ることになっている。その設定は作品の中で何度か用いられ、主人公のエレンも、巨人化能力を持った父を捕食することでその能力を手に入れた。
納得がいかないのは、物語の序盤、訓練兵だったエレンが、同じく訓練兵で幼馴染でもあるアルミンを助ける為に、無知性の巨人に食べられてしまうシーンだ。エレンは無知性の巨人に捕食されたにも関わらず、その直後に巨人となって登場する。それはエレンが初めて巨人として登場したシーンだった。
前述の設定に基づけば、エレンの巨人化能力はエレンを食べた無知性の巨人に渡り、エレンは物語の冒頭で命を落としているはずだ。そうならない理由は、ネットで検索したら簡単に見つかりそうだが、調べた結果、納得のいかない話で片付けられていたら、作品全般に余計に幻滅してしまいそうなので、敢えて調べないでいる。
進撃の巨人は、作者のインタビューなどから察するに、作品の序盤を描いている時点で具体的な全体像を構築して描かれていたようで、設定の矛盾などはあまり気にならない。しかし、設定がきっちりとしていないマンガやアニメというのが昔は結構多かった。たとえば、AKIRAでも金田のバイクの構造や外装などが微妙に変化するし、ドラゴンボールでは、作者の鳥山明があるキャラクターに名前を付けたことを忘れた為に、シュウとソバという2つの名前を持つキャラクターがいる。
どんどん尻が伸びて続編が作られていくドラマや映画シリーズ、連載マンガなど、後付けで物語が拡張していくと、設定にブレが生じたり、矛盾や不自然な部分が生じたりしがちだ。
フィクション作品はフィクション作品であるが為に、設定を統一するのにある種の手間がかかる。アニメや映画など多くの人が作品に関わる場合、設定のブレをなくしたり減らしたりする為に、イメージボードを作って設定を共有したりもする。なんにせよ作家や監督・デザイナーの設定管理が最も重要だ。
進撃の巨人同様に今最も注目度が高く、進撃の巨人よりも一足早く、昨年末・2021年12月に放送が始まったアニメ
鬼滅の刃 遊郭編 に関する、こんなツイートが話題になっている。
この指摘に対する反応は賛否両論で、なるほど的な肯定的な反応と、フィクションだからつべこべ細かいことを言うな、気持ち悪いなら見るな、などの否定的な反応が見られる。
まず最初に言いたいのは、この場合の「気持ち悪い」は、決して作品を卑下しているわけではない、ということだ。不自然な設定でモヤモヤする、ムズムズする、のような、座りが悪い、のようなニュアンスでの「気持ち悪い」だと解釈するのが妥当だろう。
気持ち悪い、という表現をどう解釈するかは人それぞれでよいとは思うのだが、そこだけに注目して「気持ち悪いなら見るな」みたいなことを言うのは、あまりにも短絡的ではないだろうか。多分、自分の好きな作品にケチをつけるな、みたいな感情があるが、指摘自体の妥当性には文句のつけようがないから、言葉尻を捕らえて「気持ち悪い」に注目しているようにしか見えない。
また、フィクションだから細かいことを言うな、のような話も全く見当違いだと感じる。トップ画像には、昭和のテレビドラマでよく表示された文句を使ったが、フィクションで実在の人物や事象などとは関係ない、と言わないといけないのは、その作品が明らかに現実を意識したものであって、現実と混同されかねないからだ。たとえばドラゴンボールや進撃の巨人のような、明らかに現実離れした設定のある作品ならば、わざわざ「これはフィクションです」なんて言う必要はない。程度の差はあれど、リアリティーを追及したフィクションだからこそ、そのような注釈が必要になるわけだ。
クルマが林道を爆走するトヨタ
ヤリスのCMには、自分はそれも過剰だと思うが、現実で真似しないでね的な注釈が表示されるのは理解できるが、クルマがプカプカと宙に浮くトヨタ
ノアのCMで「これはフィクションです」と大々的に表示されたら、トヨタは消費者を「そんなことすら分からないアホ」と馬鹿にしてるのか?と言いたくなる。
このようなことを踏まえれば、フィクション作品だから細かいことを言うな、というのは、フィクションの楽しみ方を分かっていないとしか言いようがない。フィクションだからこそ世界観や設定の作りこみが重要なのだ。
おそらくこの件を前提にしているであろうこのツイートを見て、
『プラネテス』の科学考証が間違ってるとか
— Simon_Sin (@Simon_Sin) January 26, 2022
『鬼滅の刃』の背景設定のここがおかしいとか
そういう専門家による枝葉末節のツッコミは「現実世界がなぜこうなっているか?」を知るきっかけになるのでじゃんじゃんやってほしい
それが作品の面白さを損なうわけではまったくないし
自分は、そのような批判や指摘こそが、今後の作品の幅を広げ、質を上げる、と強く感じた。表現活動を行う為には、出来るだけ多くの知識と経験がある方が有利だ。個人がつめる経験には限度があるが、知識はアウトソーシングすることも可能であり、批判や指摘はどんどんされるべきだと思う。勿論中傷や言い掛かり、難癖は別だ。
表現者は指摘や批判を取捨選択する自由がまずあるし、指摘や批判を受けて、現実を認識した上でそれを敢えて無視した設定をつくるのも自由だし、現実に即したリアリティーを追及するのも自由だ。つまりその種の指摘や批判は、表現のバックグラウンドになる引き出しの中身が充実するだけの話だ。フィクションだから細かいことを言うな、では作品や表現の発展はない。
それが作品の面白さを損なうわけではまったくないし、もまさにその通りだ。このツイートを見て、たまたま話題になっていた別件のツイ―トがすぐに思い浮かんだ。
この富野 由悠季の逸話が実態に即しているのかどうかは定かでないが、この逸話がもし完全な創作であったとしても、この話には妙な説得力がある。確かに最初のガンダムにはヒドイ作画も多いし、メインキャラの声優があからさまにモブキャラの声優を兼ねているなど、画だけでなく他にもボロボロと言っても過言ではない部分がある。また、設定に関してもブレが結構あったりする。でも、ガンダムは40周年を迎えて尚続編が作られる作品に育ったわけだ。
ガンダムがここまでに育った理由は、勿論富野 由悠季の演出力も大きいんだろうが、関係者、そしてファンがいろいろと注文を付けた結果、設定が煮詰まっていったから、でもあるんだろう。勿論制作側もファンの批判や指摘、提案を全部受け入れるわけではないが、その影響は確実に受けているはずだ。
自分の好きな作品に一切ケチをつけるな、全肯定でない批判や指摘は許さない、みたいな立場をとるのも、それはそれで個人の自由だろうが、しかしそれには作品や作家の成長を妨げる側面もあることを知っておくべきだ。