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日本 報道 崩壊

 自由な報道は民主主義の基盤である。これは間違いない。自由な報道がなければ、市民の知る権利が脅かされることになり、それは民主主義の形骸化に直結しかねない。自由な報道は無責任な報道とは違う。現在の日本に蔓延しているのはこの無責任な報道だ。


   報道が悲劇を生んだ例は複数ある。その最たる例が1994年にルワンダで発生した大量虐殺である。この件の背景には、ルワンダにおける民族対立があったが、新聞や雑誌など同国内の活字メディアやラジオなどが殺戮を煽り、国際的なメディアがこれを無視したり、事件の背景を大きく誤った報道を行った結果、50万人以上の犠牲を出す大量虐殺が発生してしまった。
 2008年には、殺戮を扇動する歌を通じて虐殺を煽ったとして、同国の人気歌手だった男が罪に問われている。しかし歌手は一人で歌を広めることは出来ない。彼が歌を広めるには、ネットやラジオなど何かしらのメディアを通じて活動する必要があったはずだ。

 また2018年には、メッセンジャーアプリやSNSを通じて広まった噂によって、それに感化された人たちが、いわれのない罪で2人の男性を焼き殺す、という事件がメキシコで起きている。メッセンジャーアプリやSNSは、報道機関とは言えない。しかしそれを通じて報道などが広まるメディアであることは間違いない。つまり、この件もメディアが生んだ悲劇と言える。メッセンジャーアプリやSNSの運営者が、デマが広がることへ積極的に対処していないから起きた悲劇、という側面が確実にある筈だ。

 それらを運営する企業はサービスを運営することで利益を発生させている。また、過激な話はその信憑性にかかわらず広まりやすいことは最早明白である。そのようなWebサービスは、利用者数を増やすことや利用頻度・閲覧数を増やすことによって利益が増える構造であり、運営側には、デマや誹謗中傷でも利用頻度や閲覧数は増える、寧ろデマや誹謗中傷があった方が利用が増えるので、それらを放置した方が都合がよい、という、放置する動機がある。
 2016年ころまで、それらのサービスの運営者は、情報の発信者に責任を負わせることで、それらへの対処に明確に消極的だった。しかし誹謗中傷事案の深刻化、トランプ政権下でデマが看過できないレベルになったことなどを背景に、重い腰をやっとあげたようで、近年は一応の対処は見られるものの、その内容は未だ全く不十分としか言えないような状況で、彼らは利益優先で中傷やデマを放置している、と言われても仕方がないような状況には、概ね変化は見られない。


 このような、報道やメディアが生む悲劇は、決して海の向こうだけの話ではない。フジテレビの恋愛リアリティ番組におけるやらせ、極端な演出が引き金となって、出演者への誹謗中傷が激化し、それを気に病んだ当該出演者が自殺に追い込まれた事件はまだまだ記憶に新しい。

 また戦前の日本では、新聞やラジオが国内の戦意高揚を煽るのに大きく加担した。戦前の日本に報道の自由があったとは言い難いが、様々な検証によって、当時の日本の報道機関が、利益優先で積極的に戦意高揚に加担していった側面があることは決して否定できない。

 そのようなことに鑑みれば、日本のメディアは、そのような悲劇を二度と繰り返してはならない、という認識に基づいて活動すべきはずなのだが、2010年代以降の日本のテレビや新聞は、政治家がああ言った、こう言ったと広報するだけの存在に成り下がってしまっている。その結果、政府や政治家の言いたい放題な状況になっている。ホラ吹き放題、大袈裟に言いたい放題、何でも言ったもん勝ちな状況だ。
 政治家の発言等について、検証をするのは週刊誌の文春くらいで、昨今のテレビや新聞は、現在の日本におけるクソ政治を作り上げた共犯者と言っても過言ではない。

 昨日はこんな話が話題になっていた。安倍は「正常な判断ができない」と首相を投げ出した人物である。桜を見る会問題に関して国会で118回以上の嘘を重ねた人物でもある。そんな人物が、希望者を募ったところ2億8000万枚の希望があった、と言ったことを、裏付け取材もせずに、あたかもそれが事実かのように報じる報道機関は、信頼に足るだろうか。いや全く信用など出来ない。

アベノマスク2億8千万枚希望「早くやってくれれば」|テレ朝news-テレビ朝日のニュースサイト

 ここでは例としてテレビ朝日の記事を紹介しているが、ほぼすべての在京キー局、全国紙が、この件について同じ様に取り上げている。恐らくそれらが発言の検証を積極的にやることはなく、文春あたりが検証をやったら、それを後追いで「週刊誌がこのように報じました」的な記事を書くだけだろう。


 大阪の深刻な新型ウイルス感染拡大から市民の目を逸らせたいからか、最近維新が狂ったように話題を煽り続けている、立憲の菅 直人が維新の元代表・橋下 徹をヒトラーのようだと批判した件だが、これについても一部の日本メディア、特にテレビ局の取り上げ方には、日本終了のお知らせ、を感じずにはいられない
 少し検索すれば詳細については分かるだろうから、ここでは説明を割愛し、この件に関する自分のツイ―トを羅列するにとどめておく(要するに説明するのも馬鹿馬鹿しいような話でしかない)。



 トップ画像には、Free Texture Image on Unsplash を使用した。

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