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ひどい文章

 ふとした瞬間に、なんでそんなことを急に思い出したのか、なぜそんな疑問が急に沸いたのか、なんてことが頭をよぎることがある。大抵少し前に見聞きしたことから連想しているのだが、場合によってはそれを何から連想したのかもよく分からないことがよくある。もっと歳をとったら、そんなこともどんどん増えていくんだろう。

 基本的に分からないことを放置するのは嫌いだ。何故なら、そこで放置しても大抵後に再び同じことが頭をよぎるからだ。勿論、放置せずに調べても、また「あれはなんだったっけ?」となることもしばしばだが、それを繰り返すうちに自然と記憶に定着していくものだ。英語を勉強するのに、単語帳を使って、覚えた単語は除き覚えられなかった単語だけを何度も復習していくと、次第に覚えていくようなのと同じだ。

 ネット以前はふとした疑問を簡単に調べることはできなかった。だが幸運なことに、自分はネット以前は10代だったので、まだまだ短期記憶もよく、「後で調べよう」ということを覚えておくことも容易だった。ネット普及以降は、図書館に行かなくても、家にある古い雑誌などの資料をひっくり返さなくても、自分が疑問を抱くような範囲のことは大抵検索すれば済むようになった。勿論深い知識や理解を必要とすれば、ネットで検索しただけでは済まないのだが、研究を始めたいわけではないし、さわりを掴む程度なら、ということである。
 更にスマートフォンが普及したおかげで、家でなく出先でも同じ様に検索することが可能となり、だから、分からなかったらその場でとりあえず調べる、ということが、今は更に容易になっている。


 自分が疑問を抱くような範囲のことは、だいたいのことは大抵検索すれば済むようになった。と書いたものの、それでもネット以前の情報に関しては、ネット上に存在する情報がわずかなことも少なくない
 例えば、昨夜の DOMMUNE 配信 「勇者と戦車とモンスター 1978~2018☆ぼくのゲーム40年史」刊行記念プログラム「40 YEARS HISTORY OF TV GAME & SUBCULTURE」に関連して、出演者の一人・佐藤大が1995年頃にファミ通で連載していたコラム・フロッピーディスコのことを思い出したのだが、それについてGoogleで検索しても、ヒットした当時のファミ通のもくじ画像でそのタイトルが確認できるくらいで、その内容については全く確認できる情報がなかった。

ここまで情報がないということは、多分当時のファミ通で連載されたのみで、当該コラムは他に一切書籍化されていないんだろう。何かしら単行本に収録されていたら、たとえそれが電子化されていなかったとしても、もう少し何らかの情報が出てくるはずだ。

 ここまで情報に乏しいケースは稀だが、ネット普及以前の事象については、情報が少ないなんてことはしばしばあって、古いマイナーなマンガやゲーム、自主制作レベルのアーティストのアルバムや曲なんてのはそんなこともよくある。それでも、フロッピーディスコの件で紹介した最後のリンク先のように、古い個人Webサイトやブログなどに辛うじて情報の断片を見つけることが出来たりする。

 そのようなWebサイトは、あるだけでそりゃあもう有難いものなのだが、しかし個人Webサイトやブログなどであるが故に、文章がひどい場合も決して少なくない。
 ひどい文章というのには3種類あって、まず1つめは文法的におかしいケースだ。文法がおかしい文章とは、日本語の場合だと特に助詞、所謂「て・に・を・は」などの使い方にクセがあることが多い。日本人が正しい日本語を使いこなせるかと言えば、そうでない人も決して少なくない。寧ろ日本語をちゃんと学んだ外国人の方が正しい日本語を使いこなしている。文法的なおかしさにも度合いがあって、軽度ならば何を言わんとしているかはだいたい想像がつくのだが、強烈な場合は何を言っているのかよく分からないなんてこともある。
 2つめは、偏見が酷いとか、その文章が前提としている事実関係に深刻な誤認があるとか、文法ではなく文章の内容がひどいケースだ。たとえば、個人がゲームやマンガや音楽などを批評することには何も問題ないが、それが行き過ぎて、作った人や歌っている人・演奏している人などへの人格攻撃に及んでいる、なんてケースも少なからず見かける。とあるCSスポーツ番組のメインパーソナリティーを努める女性について調べたら、「なんであんな何も知らないバカ女に、○○(競技名)の番組をやらせるのか」みたいな個人ブログが出てきて、かなりゲンナリされられた。よくもそんな中傷としか言えない悪態を、誰でも見られるところに書きなぐることができたものだ。
 そして3つめは、その両方である。


 文章能力はその人の考える力に比例する、と思っている。文章化するということは、明らかに頭の中、考えを整理するのに有効であり、逆に言えば、母国語ですら文章化することが苦手な人は、頭の中を整理するのが苦手なケースが多い。あくまでこれまでの自分の経験からの認識なので、当然例外はあるんだろうが、そんな関係性があると思っている。
 また、偏見が酷いとか事実認識がおかしいとか、思い込みが激しいとか、その類のことも、明らかにその人の考える力を計る目安になるだろう。適切な思考が身についていたら、偏見が酷いなんてことにはそうそうならないし、事実誤認も生じにくいだろう。何かに取りつかれたような思い込みをするなんてことも少ないだろう。

 そんなことから考えると、やはり紙であれ電子書籍であれ、ある程度本を読むことは大事だし、文章を書く訓練も確実に必要だ。文字を読んでそれを理解し、何が書いてあるのか、どんなことを表現しているのかを、頭の中に思い描く力や、自分の思いや言いたいことを、言葉にして相手に伝える力を養うには、実際に文章を読んだり書いたりするのが近道だ。


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