コミュニケーションをはかる際には、相手の立場を理解することはとても重要だ。互いに自分の言いたいことだけを言い合っていたら、それではコミュニケーションは成立しない。会話をしているようで全く話がかみ合っていない、ただただ自分の言いたいことだけを互いに言っているだけの人たちを見かける。それは厳密にはコミュニケーションとは言えないだろう。
勿論、会話が成立していなくても、接触を図ることだけでも交流しているとは言えそうだ。だから広義ではコミュニケーションを行っていると解釈することも可能だが、意思の疎通が成立していないなら、それはやはり厳密にはコミュニケーションとは言い難い。
冒頭で、コミュニケーションをはかる際には、相手の立場を理解することはとても重要、としたが、それはお互いにという条件が必要であって、決して一方通行であってはならない。他人の立場を理解しようとしない人、若しくは、分かっているのに無視する人に配慮してやる義理はない。
同じ土俵に上がる(立つ/乗る)、相手の土俵に上がる(立つ/乗る)という日本語の言い回しがある。土俵は勿論相撲の土俵のことだ。たとえば異種格闘技戦で柔道家とボクサーが戦うとする。ボクシングのルールに準じて寝技禁止で戦うとしたら、柔道家がボクサーと”同じ土俵に上がった”と言えるだろう。またスポーツでは全般的に母国での試合は有利に働くとされていて、たとえば韓国と日本のサッカー代表が、韓国か日本で試合する場合は、母国試合でない方のチームは”相手の土俵に上がる”と言えるだろうし、第3国で試合をする場合は”同じ土俵に上がる”と言えるだろう。
自民党の議員 山田 宏が、ポプラ社の百科事典の慰安婦と強制連行に関する記述を前提に、「酷い「百科事典」ですね」といい、この百科事典から当該記述を削除させろ、出版社に当該出版物を回収させろ、と主張するツイートに賛同し、「対応策を検討する」とツイートしている。
もし国会議員がポプラ社に圧力をかけて記述を削除させたり、この出版物を回収させたりするようなことになったら、それは間違いなく検閲であり、憲法の定める表現の自由に反する深刻な事態である。戦前のドイツや日本ではそんなことがまかり通っていたから、現憲法では表現の自由が定められているし、もしそんなことをやったら、それは中国が香港でやっていること、いや、中国全体でやっていることと何も違わない。もしそんなことが起きたら、日本は自由主義/民主主義の国ではなくなる。
この件をきっかけに #ポプラ社は歴史修正主義に負けるな というハッシュタグがツイッターで盛り上がっている。この ”歴史修正主義” という表現は、結構前から一般的になっているが、果たしてそれは適切な表現だろうか。
コトバンクには2つの解説が掲載されていて、小学館/大辞泉は「歴史に関する定説や通説を再検討し、新たな解釈を示すこと」と善悪を絡めずにニュートラルな表現を用いているが、平凡社/百科事典マイペディアは「客観的な歴史学の成果によって確定した事実を全体として無視し,自分のイデオロギーで過去の出来事を都合良く解釈したり,誇張や捏造された〈事実〉を歴史として主張する立場を批判する際に用いられる概念」と説明し、ナチスが虐殺を行ったホロコーストの否定や、日中戦争における南京事件そのものを存在しなかったとするような主張をその例としてあげている。つまり、歴史的事実を都合に合わせて捻じ曲げることを歴史修正主義としている。
大辞泉の解説は文字通りというか、表現自体に解説を合わせた感がある。表現の成り立ちを厳密に調べたわけじゃないから、もしかしたら一般的になる以前にそんなニュアンスで用いられていた時期もあるのかもしれないが、今現在、現在歴史修正主義という表現は、主に平凡社/百科事典マイペディアが説明している意味で用いられている。
歴史的事実を都合に合わせて捻じ曲げることが歴史修正主義なんだとしたら、修正なんて表現は相応しくない。修正とは、不十分・不適当と思われるところを改め直すことであり、つまり間違いを正す、という意味だからだ。
歴史的事実を都合に合わせて捻じ曲げたり、なかったことにするのは決して修正じゃない。適切な表現は
- 歴史 ”改竄” 主義
- 歴史 ”捏造” 主義
- 歴史 ”歪曲” 主義
のどれかだ。それらでなくても、捻じ曲げる、歪曲というニュアンスを含めないと、誤認・誤解を生む恐れがある。
昨今、政府は公文書改竄を改竄と呼ばずに ”書き換え” と矮小化している。そしてメディアはそれをそのまま記事にするから、政府が公文書改竄という深刻なことをやっている、という風潮が生まれにくくなっている。歴史修正主義だって同じで、わざわざ相手の土俵に上がって、相手目線の ”修正” なんて表現を使う必要はない。いや正しいニュアンスではないのだから、必要ないではなく、”修正” なんて表現を使うべきじゃない。改竄や捏造や歪曲を修正なんて表現するのはおかしい。
こんな風に事実にそぐわない表現や、事実に反する表現は他にもある。たとえばこの数日「コロナ第6波で現場は医療崩壊寸前」のような話を頻繁に目にする。確かに、感染者数・患者が現場がさばける限度を超えれば、それは医療崩壊なんだろうが、そもそも医療崩壊の前に行政崩壊が既に起きていて、そのしわ寄せで医療崩壊が起きる、というのが実状だ。
もう新型コロナウイルスの感染拡大から2年以上が経過し、しかも2021年夏には実際に医療崩壊が起きた。その後一時感染者数は減少したのに、その間に体制を整えずに、今昨夏を超える勢いで感染が拡大しているのだから、それははっきり言って行政の怠慢以外の何ものでもない。現場の状況を伝えるのに ”医療崩壊” という表現を用いることは妥当だろうが、医療崩壊だと言うのなら、その原因である行政崩壊にも積極的に触れるべきだ。しかし日本のメディアからそんな話は全く聞こえてこない。
行政崩壊とせずに医療崩壊とすることは、現場に責任を押し付け、本来の責任者である行政、政府、首長に責任逃れさせることにもなっている。実態は行政崩壊なのに、現場の実状だけを切り取って医療崩壊なんて表現するのはおかしい。
そんな些細な表現に目くじらを立ててどうするんだ、と思う人もいるだろうが、言葉のそれぞれにそれぞれのニュアンスがあって、出来る限り正しい表現をしなければ、正しいニュアンスは伝わらない。日本語では言霊なんて表現もある。
別の視点で言えば、些細な表現にこだわらないなら、誰かが自分のことをバカと侮辱してきた際にそれを侮辱だと指摘しても、相手が「馬鹿正直のような意味の褒め言葉だった。些細な表現に目くじらを立てるな」と言ってきたら、それを受け入れざるを得なくなるだろう。
言葉選びはとても重要だ。著名な人やメディアのように強い影響力を持っているなら特に。
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