高橋 国光が3/16に亡くなった。1995年のルマン24時間耐久レース GT2クラスでの優勝など、彼の活躍をリアルタイムで見ていたのは1990年代以降の自分にとって、高橋 国光には4輪レースドライバーの印象しかないが、彼は1950年代に2輪レースライダーとしてそのキャリアを歩み始めた。
高橋 国光は、日本を代表する4輪ドライバーであると同時に、2輪ライダーとしても輝かしい成績を残している。ホンダワークスライダーとして1960年からWGP(現在のMotoGPに当たる世界選手権)に参戦し、1961年には、西ドイツグランプリの250ccクラスで日本人初のWGP優勝を果たした。
高橋 国光が活躍していた1960年代のWGPと、自分がリアルタイムで見始めた1990年代のWGPでは、当然バイクの形も性能も全然違ったし、だからバイクの乗り方も全然違った。今は2022年で、1990年代初頭を振り返るとそれはおよそ30年前で、つまり1990年代初頭から高橋 国光が活躍していた1960年代初頭を振り返るのと同じくらいに時間的な差がある。しかし1990年代初頭のWGP車両の形と現在のMotoGP車両の形は、勿論全く同じではないものの、1990年代と1960年代程には違わない。しかし1990年代はまだ2サイクルエンジンでレースをしていたが、現在は4サイクルエンジンでレースが行われているし、なにより走行を補助する電子制御システムは飛躍的に進歩している。だから1990年代と現在では、1990年代と1960年代が違うのと同じように、バイクの乗り方も大きく異なる。
正しいライディングというのは時代によって、というか乗るバイク・使うタイヤの性能などによって異なる。レッドブルが、WGP/MotoGPにおけるライディングスタイルの変化に関する記事を、2017年に掲載していた。
MotoGP:ライディングスタイルの進化
変化には様々な要素がある。その中でも象徴的な変化は、昔はコーナーリング時にバイクのセンターに体の軸を残すのが基本とされていたが、電子制御やタイヤの高性能化によって、以前では考えられないバンク角でのコーナーリングが可能となり、今ではコーナーリング時にライダーがバイクの内側に大きく体を落としこみ、肘を路面に擦り付けるようになっていることだ。
2002年にWGPからMotoGPへの名称変更が行われる以前から活躍してきた、MotoGP界で1番のスターライダーだったバレンティーノ ロッシが昨シーズン限りで引退したが、下位クラスも含めて25年以上世界選手権で活躍し続けてきた彼は、その時代・バイクに合わせてライディングスタイルを変化させて常に進化してきた。2010年以降は、新たに登場した有力な若手のライディングスタイルを柔軟に取り入れる、ということも貪欲にやっていた。
そのような意味で言えば、何が正しいのか、は常に変化するので、そのタイミングで正しいとされていたことが、将来もずっと正しいかと言えば、バイクレースで言えばバイクやタイヤなどが進化するので、言い換えれば取り巻く環境は変化するので、決してそうとは限らない。
しかし、いつの時代も変わらない正しさ、も確実にある。2輪や4輪のレースで言えば、レギュレーションの範疇で誰よりも早く規定周回数を走り切った者が勝つ、という根本的なことは変わらない。つまり速く走ること・早く集回数を重ねることは、スプリントレースの世界においては常に変わらない正義のようなものだ。
別の例で言えば、その時代によって正しいバッティングフォームや投球フォームは変化するが、外野の先にあるスタンド等にまで打球を飛ばせばホームランになるとか、ピッチャーはストライクを3つ取れば打者をアウトに出来る、のような基本的なルールは変わらない。つまり、打球を遠くまで飛ばせる打者が正義であるとか、ストライクを積み重ねられる、アウトを量産できるピッチャーが正義である、のような要素は、野球においては常に変わらない。
勿論、その競技の黎明期であれば、たとえばホームランの定義を変えようとか、3ストライクで1アウトではなく4ストライクにしたらどうかとか、そのような検討も提起されるかもしれない。だが余程のことがない限り、モータースポーツでは最も早く規定集回数を走り切った者が優勝者であること、野球では打球を外野の向こうまで飛ばせばホームランであること、空振りさせれば、良い球を見逃させればストライクを取れることのような、それ自体がその競技の根幹に関わるような基本的ルールは変わらない。つまり変わらない正しさ、も確実にある。
憲法改正について議論しないのは思考停止だ、と言う人たちがいる。核共有を検討せよ、議論しないのは思考停止だ! という人たちがいる。憲法改正を望む人たちの目的は、憲法改正それ自体が目的か、もしくは戦争の放棄を規定した9条の改悪、つまり軍の保持・戦争行為の容認がその主な目論見である。
日本は、日中戦争や太平洋戦争を始めた80年前の失敗を反省し、今後一切の戦争を放棄すると憲法に記した。また、太平洋戦争/第二次世界大戦後の世界では、日本のように憲法に明示していなくとも、武力による現状変更・紛争の解決を基本的は国際法違反になる、ということになっている。というか、ほとんど履行されていなかったが、便宜上は戦前から戦争放棄は国際的な規範だった。つまり、戦争の放棄はいつの時代も変わらない正しさの類である。
核兵器だって、核兵器黎明期ならまだしも、核兵器が登場してから既に半世紀以上が経過していて、核兵器では決して平和を維持できないことは実証されているし、現在核兵器保有を正当化しているのは保有国(とその関連国)だけと言っていい状況で、世界中の少なくない国が核兵器は禁止すべきである、という条約に加盟している。核兵器廃絶も基本的な正しさの類である。
憲法9条を変えて戦争の放棄をやめようとか、核共有を検討せよ、なんてのは、モータースポーツ(スプリントレース)について、最も早く規定集回数を走り切った人が優勝する、というのを変えようとか、野球について、外野の外まで打球を飛ばしたらホームランではなくアウトにしようとか、空振りしてもストライクにカウントしないようにしようとか、そんな類のことを議論すべきだ、と言っているにも等しい。根本的な正しさについてその是非を議論する、なんてのはコストの無駄にしかならない。
もっと分かりやすく言えば、暴力をちらつかせて脅してもいいことにしようとか、誰もが銃を所持できるようにしようとか、そんなことを議論しろと言っていて、議論しないのは思考停止だ!と言っているようなものだ。実社会においてそんなことをして得するのは誰か? ヤクザとか武器商人とかほんの少しの人たちだけで、多くの一般的な市民は余計な心配が増えるだけだ。そんな馬鹿げた検討に時間を割く余裕など今の日本にあるんだろうか。