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テレビに出てるだけで嫌悪感を抱いてしまう

 テレビばかり見てると馬鹿になる は、2007年の日本の映画だ。山本 直樹の短編マンガが原作で、原作の特徴的なコマ割りを長回しで表現していて、85分の作品なのに総カット数は一桁しかない。原作者の山本は1960年生まれだから、多分、テレビばかり見てると馬鹿になるよ、と言われて育ったのだろう。

 自分が幼少期を過ごした1980年代でも、まだテレビばかり見てると馬鹿になると言っている大人は結構いたし、なんならマンガやアニメ、その頃一般化したテレビゲームも同じように言われていた。1990年代に入ると、テレビばかりー と言う人はかなり減ったように思うが、宮崎 勤や酒鬼薔薇 聖斗の事件、そのメディアでの取り上げられ方の影響か、マンガやアニメは少なくとも1990年代までは一括りにして悪影響を叫ぶ人が少なくなかったし、テレビゲームに関しては、ほんの十年前までゲーム脳だとか言っていた人たちがいたし、2020年になっても尚、香川県が子どもがゲームやスマホを使う時間を制限する全国初の条例なんてのを定めたりしているし、今でも偏見は確実にある

 大人が新しいものを警戒する、なんてのはそれらに限ったことではない。ロックや映画だって同じ様なレッテル貼りをされた過去はある。もっと極端に言えば、大昔には、漢文こそが素晴らしく仮名なんてのは女や子どもが使うもの、なんて認識があったようだが、今そんなことを言っていたら確実に笑われる。
 よく考えもせずに情緒的にしか物事を捉えられないと、そのようなくだらないレッテル貼りをしてしまうんだろう。自分が子どもの頃に テレビは1日1時間、と言っていた父は、今や、ネットをほぼ使わないので、一日中テレビをつけっぱなしだ。彼のお気に入りは巨人戦と麻雀番組だ。

 寧ろ最近は、父よりも自分の方が テレビばかり見ていると馬鹿になる と思っているだろう。日韓政府の関係悪化した2019年の夏に、民放が盛大に嫌韓に染まって以降、自分はほとんどテレビを見なくなった。それ以前も、2014年頃からテレビ報道に違和を感じ始めていて、報道/情報番組は懐疑的な視点で見ていたが、テレビ関係者がは全員異様な状況というわけではなく、まともな人もいるんだろう、とまだ思っていたし、おかしな番組/伝え方を批判するにはテレビを見ずにはできない、とも思っていた。しかし、テレビ報道の異様さは時を追うごとに悪化していった。少なくとも自分にはそうとしか思えなかった。そしてそれは今も続いているようだ。
 たとえば、プーチンがウクライナ侵攻をやったことで、日本人がロシア人全般を嫌悪し、ロシア料理店や食品店に嫌がらせをやるのは間違っている。だが、もしロシア料理店の店主が、プーチン支持、ウクライナ侵攻を盛大に正当化する主張をしていたら、嫌悪されるのは当然だし、方法にもよるが抗議されても仕方がないだろう。テレビ報道が異様な状況になっていく中で、報道部の人間でないにせよ、それに異論を呈さないテレビ関係者は、自分の目には、プーチンを支持するロシア人、ウクライナ侵攻を正当化しようとするロシア人のように見えた。自分の属する組織がおかしなことをやっているのに見て見ぬふりをするおかしなことをしている組織と組んで仕事をする、というのはそういうことではないのか。
 当初は、番組へ出演する人たちは、生活の為に出演せざるをえない場合もあるし、そこまでは嫌悪感を抱いていなかったが、何年もおかしな状況が続いているのに、そして今やテレビ以外にも芸能活動/タレント活動をする場はあるのに、果たして生活の為に出演せざるをえない場合もあると言えるか?と思い始めた。そんな思いが背景にあるのがこのツイートだった。

 テレビばかり見ていると馬鹿になる はある意味においては極端で情緒的な話だろうが、今のテレビ報道、それに違和を示さずに見て見ぬふりの人たちが作る番組は、そればかりを見ていたら馬鹿になる、と言われても仕方がない。つまり別の意味では情緒的なレッテル貼りとは言えない。
 テレビに出てるだけで嫌悪感を抱いてしまう だって、それが短絡的な話だったらレッテル貼りの類なんだろうが、なぜそう思うのか、どんな経緯でそんな思いに至ったのか、に合理的根拠がある、なんて場合もあって、その場合は決して短絡的で情緒的なレッテル貼りとは言えないだろう。

 でも、なぜそう思うのか、をちゃんと示さなければ、短絡的で情緒的なレッテル貼りと言われても仕方がない。風が吹けば桶屋が儲かる ではなく、なんでそう思うのか、はしっかりと示しておく必要がある。


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