スキップしてメイン コンテンツに移動
 

暴力行為や虐待行為の 矮小化・正当化

 自分が小学生だった1980年代、いや、中高生だった1990年代も、まだまだ生徒を殴る先生はいた。問題化することもあったが、当時は親が子を殴るなんてことも結構あり、殴られて当然と思う親も多く、叱られるようなことをしている限りは、そんなに問題にもならなかった。でも、だから理不尽な教員も多かったように思う。今が実際にどうなのか知らないので、今と比較して、ということではないが。

 日本では2020年代になっても未だに、ブラック校則と呼ばれる理不尽で非合理的で、教員も学校も教育委員会も、ルールだから、以外に説明できないような校則が、少なからず残っていて、都立校がやっと2022年度からおかしな校則を改めると表明した。ブラック校則が社会問題になってから、都立校が改めると表明するまでに少なくとも5年以上も時間がかかった。1980-90年代以前に比べれば、教員による物理的暴力は減ったかもしれない。しかしブラック校則改善の消極的さ加減、人権軽視から言って、日本の教育には異常性が今も残っている。

黒髪強制、下着の色指定、ツーブロック禁止…都立の学校で「ブラック校則」5項目廃止へ:東京新聞 TOKYO Web


 横浜市教育委員会が、児童4人にだけプリントを配布しなかったり、給食を少量しか盛り付けないなどの差別的な行為をした、市立小学校の男性教員を懲戒免職にした、という記事を東京新聞が3/25に掲載していた。当該教員の行為は当然酷いが、これに関する教育委員会のコメントも酷い。

児童4人にプリント配らず、給食は少量...小学校教諭を懲戒免職 「教員によるいじめ」と横浜市教委:東京新聞 TOKYO Web

 児童4人にプリントを配布せず、うち3人にはテストや授業を受けさせなかったり、4人に給食を少量しか盛り付けないことが数カ月にわたって繰り返したこと、また、1人の児童をたびたび教室外に連れ出し1時間以上叱る、などの行為について、教員は「叱られている姿を見せることにより、他の児童にも抑止効果があると考えた」などと説明しているようだが、教育委員会担当者はこれを、

教員によるいじめととられてもおかしくない行為

と断じた、と記事にある。
 1人の児童をたびたび教室外に連れ出し1時間以上叱る、については、何について叱ったのか、叱られて当然のことを当該児童が繰り返した為に行った対応だったかなど、条件によっては不適当とは言えない場合もあるが、他の件を加味して考えたら、これも見せしめのような行為だったんだろう。
 一部の児童にだけプリントを配らなかったり、テストや授業を受けさせなかったりするのは、小学校の教員が児童に対してとる措置として妥当か?全くそうは思えない。特に給食を少量しか盛り付けないなんてのは差別以外の何ものでもない。しかも1回でなく、数か月も繰り返したのなら、そう断定してしかるべきだ。
 なのに教育委員会担当者は「いじめととられてもおかしくない行為」と、あたかも教育的指導として妥当性も少しはあったかのように言っている。どう考えてもおかしい。明らかに「教員による児童に対するいじめ行為」以外のなにものでもない。というか、学校におけるいじめは基本的に生徒間で起きるもので、教員という学校における絶対的に有意な立場を悪用しているのだから、いじめと表現することも矮小化と言えるだろう。教員による生徒へのパワハラ、厳しく言えば虐待行為とすら言えそうだ。それを教育委員会担当者は「いじめととられてもおかしくない行為」と矮小化している。

 この件からも、日本の教育現場にはまだまだ異常な感覚を持っている者がわんさかいるんだろう、と推測される。なぜなら、そんな風に身内である教員による酷い行為の矮小化をやる者が教育委員会にいて、しかもそれを誰も正さない、ということだろうから。


 このツイートを見て、怒鳴る/殴る、不当な制裁を加えるなどの暴力を、親心からなどの理由で正当化するのは、まさに戦前日本のメンタリティーだと思った。

 ツイートにもあるように、1940(昭和15)年に長野県上諏訪町(現諏訪市)の上諏訪郵便局が作った子供向け保険勧誘冊子・小国民の知識には、中国がいつも乱れているから日本が出ていって中国の為に戦ってあげている、日本は情け深い国だとして、日中戦争を正当化するようなことが書かれている。

 未だに一部には、太平洋戦争だけでなく日中戦争についても、植民地支配からの解放戦争だったと言い張る者がいる。日中戦争の相手は、植民地支配した側の欧米諸国ではなく、植民地にされた側・中国の国民党/共産党などの勢力だったのに。そもそも、日本は一方的に満洲国という傀儡国家を作った植民地支配側だ。


 確かに、暴力から逃れる為、暴力行為を阻止する為の対応など、一部に正当化できる暴力や制裁もあるが、基本的に暴力は正当化できない。特に詭弁に使われやすいのが、しつけ、教育の為とか、あなたの為を思ってなんて類の言い逃れ、自己正当化である。
 ブラック校則の件や、横浜市教育委員会の「教員によるいじめととられてもおかしくない行為」という矮小化など、まだまだ戦前のメンタリティーが日本には根強く残っている、としか言いようがない。


このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。