インターネット以前、芸能人やスポーツ選手、作家などの人となりを知ることができるのは、テレビ番組か新聞や雑誌の記事だけだった。ネットが普及し始めると、Webサイトでプロフィールを公開したり、掲示板を設けてファンなどと交流する人が有名人にも出てきて、2000年代中盤以降はブログを開設する人が増えた。
ブログの使い方は様々だったが、携帯電話でも投稿が可能でWebサイトよりも更新が気軽に行える為、1日に数十回も投稿するなど、現在のSNSのような使い方をする人も出てきて、有名人の人となりはそれ以前に比べて格段に見えやすくなった。そして2000年代後半にツイッターやフェイスブックなどのSNSが本格的に普及し始め、現在では、人気のサービスは少しずつ変化しているが、SNSは有名人を含む個人による情報発信の場としての主流になっている。
個人の情報発信の主流がWebサイトやブログだった時と同じように、SNSでも事務的な投稿しかしない人もいる。そして今もSNSに手を出していない人もいたりはするが、人となりがわかるようなWeb投稿をする人の割合は、SNS以前に比べて格段に増えている。だから気になった有名人がいたら、とりあえずSNSを覗けばどんな人なのかは大抵見えてくる。勿論SNSを見ただけでその人のすべてを分かったつもりになるのは間違いだろうが、SNSの使い方、どんなことを投稿しているか、どんなことに反応を示しているのかなど、他の媒体で見えていない部分、その人の素性みたいなものが、SNSには少なからず滲み出るものだ。
有名人について、としてここまで書いてきたが、それは決して有名人にのみ言えることではなく、一般人でも同じことで、素性を知られたくないなどの理由で、複数のアカウントを使い分ける人も少なくない。しかしそれでも、どこかにその人の性質は滲み出るし、ズボラな人は所謂誤爆をやったりもする。
SNSが個人の情報発信の主流になってからは、気になる有名人がいるとまずSNSを覗くようになった。場合によってはフォローして投稿を追う。なぜなら、たとえば音楽やまんが・アニメ、映画などの映像作品にかかわるような人なら、その人が関わる作品に関する情報が得られるし、タレントなどならテレビ番組の出演情報・雑誌等の記事掲載情報を発信する場合もある。最近はネット配信番組のサービスや方法は様々だし、以前は見られなかった自分が住んでいる地域以外の地方番組なんかもWeb配信で見られるようになっていて、テレビ番組表をチェックするよりも、SNSをチェックする方が見落としが少ない。
また、所謂既存の意味合いでの有名人ではなく、Youtuberやブロガー、同人作家・アマチュア作家など、以前の意味合いで言えば準有名人レベルな人の場合は、その人の作品や投稿情報を知るにはSNSしか手段がないと言っても過言ではない。なので気になる作家がいたら、とりあえずSNSをフォローするのが普通の行動だろう。
しかしSNSで誰かをフォローすると知りたくない素性が見えてしまうことも少なくない。
たとえば、あるグラビアアイドルが、電車の中で話しかけてくんなよ、話したいならカネ払って撮影会にこい、みたいなツイートをしていた時は、それは思っていても言っちゃダメだろ…と思ったし、あるコスプレイヤーが、(コミケなどで)写真集ROM買いもしないくせに寄ってくるなよ! みたいなツイートをしていた時も、性格悪!と思った。もしかしたら、電車で話しかけてきた奴やROMを買わずに近寄ってくる奴が、傍若無人で常識はずれな振る舞いをしたからそんなツイートをしていたのかもしれないが、そうならそう書かないと読み手には分からないわけで、単なる性格の悪い人・高飛車な人に見えてしまう。
また、気になるを有名人・準有名人をフォローしたら、その人が差別的な主張をツイートをする人だった、なんてことも少なくない。あからさまな人はその人のページを開いた時点で分かるのでフォローはしないのだが、悪気なくというか、無頓着にというか、また前述の話のように言葉足らずなどでも、差別的なツイートになることがある。そのような場合、ざっとその人のページを見ただけではそれは分からず、不意にそんなツイートが流れてきてギョッとする。
悪気がないから、無頓着だからいいのかと言えば決してそんなことはなく、いい大人ならば、そもそも差別に無頓着な事自体が問題だ。その人が主体的にツイートしていなくとも、差別的なツイートをリツイートしたり、いいねしたりしていたりするのも同様だ。
昨日もまた一人、好きだったアマチュアイラスト作家が在日コリアン差別ツイートにいいねしているのが目についてしまい、とても残念な気持ちにさせられた。
人によっては、作品は作品、作家の人間性とは別物、のようなことも言う人もいる。しかし、芸術とは作品を作った人の人間性も含めて作品だろう。たとえば、どんなに戦争反対・平和が大事だと歌っていたとしても、その歌手が子供や配偶者に暴力を振るっていたら、その歌に共感できるか? 自分は全くできない。映画などのように、多くの人が関わって形成される作品の場合、その関係者の1人に問題があっただけで公開を中止する、というのは理不尽だとは思う。しかし、監督や主演俳優などその作品に強く関わる者が、差別や暴力的な行為などに及んでいた場合、その作品を見たい、聴きたいという気持ちは大きく減退する。イラストや小説など作家が基本的に作品を1人で作るものの場合は、もう全く触れる気にもならなくなる。
SNSにおける差別的な投稿については、トランプと彼が煽った人たちなどがSNS内外で猛威を振るったことなどから、現在、運営によるそれへの対処は、数年前に比べたらマシになった。しかしそれでも相変わらず、なんでこれがずっと放置されているの?というアカウントや投稿はたくさんある。つまり充分に対処がされているとは決して言えない。
また、差別的な投稿をするアカウントへの対処は行われていても、リツイートやいいねなどで差別的な投稿に賛同する行為への対処は行われていない。操作ミスや勘違いなどもあるだろうから、差別的ツイートのリツイートやいいねを1回しただけで1発アウトなんてのはやり過ぎだろうが、問題のあるツイートへの賛同を繰り返すアカウントにも、何らかの対処が必要だろう。肯定的な反応が集まることは、差別的な主張をする者のモチベーションにつながってしまうだろうから。
また、無頓着な差別的投稿を指摘するとブロックされてしまう、なんてことも決して少なくない。ブロックは本来、攻撃に晒された人がそれ以上の暴力から逃れるための手段のはずだが、異論の排除にも使えてしまう。ブロック機能が寧ろ差別的な投稿を増長させてしまっている側面は確実にある。コアなファンというのは当該アカウントに肩入れしがちで、当該アカウントの差別的投稿に対する指摘を、当該アカウントがブロックすれば、ブロックされた方が悪、ブロックした方が正しい、のように認識してしまいがちだから。
SNSも実社会同様に様々な人が集まって形成されており、実社会から差別をなくすことができていないのだから、SNSから差別的な投稿をなくすことは不可能なのかもしれない。SNSからもなくすことができないのはある意味当然かもしれない。
しかし、だから差別的主張に対処しても仕方がない、ということにはならない。殺人事件はゼロにはならないが、だから殺人事件を操作したり罰したりしても意味がない、とはならないのと同じことだ。理想はほぼ実現不可能であっても、現実を出来るだけ理想へ近づける努力は無意味ではない。その努力は絶対に必要なことだ。