今から15年くらい前のちょうど今頃、あるクラブ友達が仕事中に突然倒れてそのまま死んでしまった。クラブの人間関係では、何度も顔を合わせていて、顔を見れば普通に声をかける間柄なのに、本名も連絡先も知らない、なんてのはよくあることだが、自分のところへは、たまたまそいつの幼なじみが同じクラブ仲間だったので、彼から連絡がきて葬式に行った。
テレビでたまに外国の葬式の様子が取り上げられることがあるが、日本や欧米とは違い、どこか明るくて陽気な感じのある、東南アジアやメキシコ、アフリカなどの葬式を見ると、そいつの葬式のことを思い出す。
少なくとも日本における葬式は基本的におごそかな雰囲気で、陽気な感じを出すと寧ろ不謹慎とさえ言われそうだが、そいつの葬式は違った。いや、厳密には、通夜や告別式は、普通の日本の方式にのっとって皆喪服を着て神妙にしていたので、そこは違わない。違ったのは通夜の後のことだった。
そいつは結構顔が広かったことと、同じクラブ仲間に幼なじみがいて、通夜の前に広く連絡が行き渡ったことで、通夜には50人くらいのクラブ仲間が来ていた。クラブには一人で遊びに来る人も結構多い。もしそいつもそんなタイプで、幼なじみのような本人だけでなくその家族とも面識や交流のある者がいなければ、クラブ仲間にそんなに連絡が回ることもなかっただろう。そいつの母親が、自分の息子にこんなにも友達がいたなんて知らなかった、と言っていた。死んでしまった息子の知らなかった一面を知り、多くの人が葬式に来たことを、誇らしく思っていたように見えたことをよく覚えている。
通夜の後は、仲間で少し酒を飲みながら思い出話をして帰る、なんてのが一般的だろうが、クラブ仲間が50人も集まると、そこはやはり少し違ってくる。その中にはDJも当然いたし、小さいクラブの店長なんかもいて、その昔は、死者を弔うための夜通し灯りや線香を絶やさず、親族が寝ずの番をしたような感覚で、盛大にそいつを送ろうということで、通夜の後あるクラブへ移動して、言うなれば通夜パーティーをした。多分通夜にきた50人程度のうち9割がそこにも顔を出し、6割程度が朝まで共に過ごし、3割程度が翌日また告別式に行った、ような感じだったと思う。
型にハマってしまっている人は、そんなのは不謹慎だとか、人の死を口実に酒を飲んで騒ぎたいだけだとか言うかもしれない。勿論そんな感覚を全否定するつもりはないが、しかしクラブ仲間がクラブ仲間を送るのなら、みんなで騒いでくれた方がいい、自分の時もぜひそうして欲しい、と当時の自分は思ったし、今もその気持は変わらない。みんなが暗く沈んでくれたら慰めになる?
自分は死んでも誰かにそんなことを求める気はない。
前述したとおり、世界を見渡せば、明るく死者を送る文化は実際に結構あるのだし、死を悼むこと=悲しみにくれること、とは限らない。
こんな話を持ち出したのは、勿論今安倍の国葬がいろいろと物議を醸しているからだ。自分は安倍の国葬に明確に反対である。
葬式とは何か。それは人の死を悼む儀式である。その人の死を悲しむ人、別れが惜しい人の為の儀式だ。誰かが死んだら誰もがその人の死を惜しまないといけない、なんてことはなく、誰からも死を惜しまれない人の葬式は誰もやらない。人知れず死ぬ人なんてのたくさんいて、様々な理由で葬式をやらずに済ます/済まされる人は少なくない。
職場の同僚が事故で死んでしまったら、大抵、同じ職場で働いていた者は葬儀に参加して香典を持っていくだろう。しかし、死んだのが自分にセクハラやパワハラを何度も繰り返してきた相手だったらどうか。それでも香典持って葬式に行くか? 自分だったら、たとえそれが理不尽な殺人や事故による死だったとしても絶対に行かない。むしろ死んでくれてせいせいしたとすら思うだろう。
国葬というのは、国の予算で葬式をやるということだ。つまり税金で葬式をやるということであり、全ての納税者に葬式の費用を負担させる、ということにほかならない。官房長官は、岸田内閣が安倍の国葬をやると閣議決定したことについて「国民一般に喪に服することを求めない」などと言っているが、葬儀の費用を負担させる国葬は、それ自体が服喪の強要だ。自分は、国会で自身の公選法違反について3ケタにも及ぶ嘘をつき、それを秘書のせいにして逃げ回り、公文書や基幹統計に関するデータの改竄捏造隠蔽を何度もやり、まともな新型ウイルス対策もしなかったような首相の、葬式の費用なんて絶対に負担したくない。
そんな首相でも非合法に射殺されてしまったんだから、それなりに弔うべきだ、と思う人の気持ちは全く理解できないが、しかし自分が理解し難いというだけで全否定まではできない。だからやりたい人たちが有志で費用負担して葬式をやる分には構わない。しかし国葬となれば話は別である。前述したように、それは全ての納税者に安倍の死を悼めと強制する類いのものだから。
安倍の国葬について起きた反対デモについて、国葬反対なんて私情だろ、というツイートがタイムラインに流れてきて愕然とした。
国葬に反対するのは個人的な感情であるから、反対するのはおかしい、というのがこの人の主張だが、これは紛れもない服喪の強要である。たとえ国や政府が、国葬について全ての人に服喪の強要はしないと言ったところで、国葬なんてことをやれば、この人のように、他人に喪に服することを強要する人がかならず出てくる。
このツイートだけではこの人が何を言いたいのかよく分からないかもしれないだろうが、このツイートへのリプライを見た上で、この人の別のアカウントのツイートを見れば、前述の解釈が間違っていないことがよく分かる。
この人はツナマヨという名義で活動しているセクシー系コスプレイヤーで、多分フォロワーの大半は、特に反応を示す人はそのファンだと思われる。以上が現時点で当該ツイートに連なっているリプライで、見える範囲では引用リツイートはない。この中で、異論を唱えているのは1番上のツイートだけである。これについて、この人は裏アカと称した別のアカウントで、このようにツイートしている。
自分の主張と異なる意見を、根拠示さずにさもしい、つまり品性が下劣であると言い、そして物事は多角的であっていいだろ、と言っている。異なる意見をこき下ろしながら、様々な主張があるのは当然だと言っており、言っていることが全く矛盾している。
またこれでは、国葬反対はさもしいと言ってるにも等しい。つまり、安倍の国葬に反対するのは品性下劣だとまで言っているのだ。戦前戦中に、戦争に反対する人のことを非国民と罵ったのと何も違わない。国葬をやる、ということは、この人のような主張を後押しすることにもなってしまうのだ。
この人が安倍の国葬に賛成しているであろうことは、このツイートからもよく分かる。
余談だが、この種の人たちは、「何が」は全く示さずに安倍の実績はスゴイと主張する。女性活躍とか言っていたのに現状がどうなっているか、働き方改革と称して何が行われたか、アベノミクスが円安誘導をやって今日本経済がどうなっているか、北方領土が安倍外交の結果どうなったか、拉致問題は決意ばかりで一切進展していないこと、消費税ばかりが上げられ社会保障は後退の一途を辿っている現実、などは全く無視して、ただただ実績がスゴイスゴイと言い続ける。
安倍射殺事件の背景には、統一教会というカルトの存在があり、自民党と統一教会が激しく癒着してきたことが今頃になって取り沙汰されている。そんなことから、1980年代の映画「マルサの女2」
が一部で話題になっている。マルサとは国税局査察部のことで、脱税しようとする人たちと査察官の攻防を描いた映画だが、このシリーズ第2作では、大物政治家と新興宗教の関係、宗教団体を利用した脱税が描かれているからだ。
この投稿のトップ画像に使ったのは、マルサの女の監督である伊丹 十三の初監督作品、その名も「お葬式」のイメージだ。お葬式は1984年の映画で、葬式を初めて出す人たちが、勝手がよくわからずに右往左往する様子を描いており、タイトルはお葬式なのに、あちらこちらに笑いを誘う仕掛けがちりばめられている。
自分は儀式めいたことは何事も好きじゃない。だから一般的な形式の結婚式や葬式をわざわざやる必要はないと思っている。しかし本人らがやりたいとか、周りがぜひやりたいと言うなら、それは全く否定しない。やりたければやればいいし、やりたくないならやらなければいい、参加したくないなら参加しなければいい、というのが本音だ。
いくら身内や職場の同僚だって、それだけの理由で結婚式や葬式への参加を強要され、祝儀や香典を支払わされるのは嫌だ。そんなのは弔意と式費用負担のカツアゲにも等しい。国葬なんてのはまさにそれだ。
参考