スキップしてメイン コンテンツに移動
 

写真を "1コマの動画" と言い張るような詭弁

 防犯カメラに ”うつる” は、写るか映るか。毎日新聞校閲センターのツイッターアカウントが、数日前にそんなツイートをしていた。毎日新聞校閲センターの記事の解説はわからなくもないが、非常にニュアンスを掴みにくい。個人的には、写真/静止画の場合は写す、映像/動画の場合は映すを使っている。


 その自分の基準で判断するなら、防犯カメラは基本的に映像/動画を撮影しているので、防犯カメラに映る、とすることになる。

 ただ、防犯カメラは基本的にずっと撮影続けているので、撮影する映像を高画質に設定すると記録できる時間が短くなってしまうことがある。昨今は記録メディアの容量に対する価格が大きく下がり、たとえば512GBのSDカードが5000円から手に入る。ハードディスクなら8TBで1万円強くらいだ。それでも、512GBだとHD720p画質で2日/48時間程度までしか記録できない。画質を上げれば録画時間は更に短くなる。防犯カメラ/監視カメラの映像は、撮影してから数週間後、数ヶ月後に必要になることも多く、48時間程度しか記録が残らないのでは少し厳しい。8TBのハードディスクを使っても1か月分だ。個人宅なら1ヶ月遡って映像を確認できれば十分かもしれないが、業務用だとその3倍は欲しいところではないだろうか。
 だから防犯カメラではHD720pよりも解像度を下げたり、画質を下げたり、フレームレートを落としたりして、録画時間を確保する。1990年代はカメラそのものの性能も低かったが、それ以上に記録メディア容量、また通信速度の制約から、たとえば1分毎に静止画を撮影する、のような設定の防犯カメラもあった。

 1秒に1コマの映像は確認する時点でもいわゆるタイムラプスのようなコマ送り映像に見える。だが1分に1コマ撮影する場合はどうか。撮影した映像を15FPS(1秒間に15コマ)に変換/倍速再生すれば、それもやはりタイムラプス動画になる。しかし実際にリアルタイムで確認する時点では動画と言えるか。多くの人が、それを動画とは認識せずに、1分間に1枚ずつ写真が切り替わるスライドショー表示だと認識するだろう。
 つまり、映像と写真に明確な線引はない。その境界は曖昧で、一般的な30FPS(1秒に30コマ)の動画だって、1秒間に30枚静止画を撮影しているようなものだ。簡単に言えば、動画は複数の静止画で構成されている、ということだ。


 写真/静止画と映像/動画の境界は、デジタルカメラ以前はそれほど曖昧ではなかった。デジタルカメラ以前、写真用のカメラで動画は撮影できなかったし、ビデオカメラで静止画も基本的に撮影できなかった。だからスチールカメラで撮影したものは写真、ビデオカメラで撮影したものは映像/動画だった。デジタルカメラが世に出回り始めてしばらくすると、おまけで数秒の動画撮影機能をつけた機種が出てきた。640×480という実用的と言える最低限の解像度で音声付き、撮影時間も分単位になるのは00年代前半で、HDに分類される720pでの撮影機能が搭載され始めたのは2010年前後だった。
 それでも2010年代前半まではまだ、動画撮影は基本的にビデオカメラの方が有利だった。バッテリーの持続性/熱対策など長時間撮影するには、スチールカメラの動画機能では厳しいものがあったし、アクションカムもまだ手ぶれ補正が弱く、一般的な動画撮影はまだまだビデオカメラで行うのが有利だった。その状況が変わり始めたのは2015年以降で、撮影の気軽さではスマートフォンに、小回りではアクションカムに、画質と撮影表現の自由度ではミラーレスなどのレンズ交換式カメラに、性能面で追いつかれ/追い越され、今や従来型の家庭用ビデオカメラは、コンパクトデジカメと共に新機種が発売されなくなった。
 今では、写真にしろ動画にしろ、一般人は基本的にはスマートフォンで撮るもので、趣味的に撮る人でもレンズ交換式カメラやアクションカムがスタンダードだ。本格的にYoutubeなどをやっていて、長時間安定的に撮影する必要がある人などに、ビデオカメラによる撮影の需要は限定されている。だからメーカーもほとんど普及価格帯の新機種を出していない。で、安価なアクションカメラにすら静止画撮影/タイムラプス撮影機能は搭載されていて、それも写真/静止画と映像/動画の境界が曖昧にな状況の一因だろう。


 このような考え方で言えば、たとえば、1枚の写真について、

「これは、100年に1コマの間隔で撮影しているタイムラプス動画の1コマなので、今はまだ1コマしかないが動画である」

と言い張ることもできるだろう。しかし、最低でも2コマなければそれは静止画でしかなく、写真を1コマしかない動画だと言い張るのは詭弁と言っても過言ではない。それが数百年後に動画になる可能性を秘めていても、1コマしかない今はまだ動画ではないし、2コマ目以降が撮影されずに動画にはならない恐れがとても強い。




 立憲民主、国民民主、共産、れいわ新選組、社民の5野党などは8/18、憲法53条に基づく臨時国会の召集要求書を衆参両院の議長に提出した。これについてNHKは「旧統一教会問題で政府・与党 臨時国会の早期召集 応じない構え」と報じている。53条には、

内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

とあり、内閣が応じないのは憲法違反だ。この条文には招集期限が規定されていないから、直ちに招集する必要はなく、直ちに応じなくても憲法違反にはならない、と言う人達がいるし、政府と与党もその立場をとっている。果たしてそんな話に妥当性はあるだろうか。憲法違反を指摘せず、あたかも、いつ招集するかの裁量は内閣側にあって、要求応じない姿勢は妥当であるかのようなNHKの記事・見出しも異様だ。

 もしそれが妥当だとしたら、ずっと招集に応じずに、そのうち招集すると言い続けてもOKなことになる。それは実質的には招集しない、つまり招集に応じないのと何か違うだろうか。勿論なにも違わない。流石に政府や与党もそこまでバカじゃないので、例年臨時国会が招集される10-11月頃には招集するのだが、しかしそれでも憲法の規定に反していると言えるだろう。
 野党側は、元首相・安倍晋三の国葬や世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題、物価高、新型コロナウイルスの流行・第7波などについての質疑が必要だとしていて、だから国会招集を求めている。この中で少なくとも、国葬、物価高、新型ウイルス対応は、即時対応が必要な事案であり、招集が必要なのはまさに今なのだ。だから、規定がないから招集要求に応じるのはいつでもOKとは全く言えない。即時、できる限り速やかに招集が行われなければ、それは憲法53条の趣旨に反していると言える。必要なタイミングを過ぎて手遅れになってから国会を招集したり、国会を招集はするが必要な会期をもうけず十分な議論ができない状態で閉会したりすることは、表面上は憲法の規定に反していないように見えても、実態は憲法の趣旨に反している。
 それは、1枚の写真を1コマしかないが動画だ、と言い張るのと同種の詭弁だ。


 1枚の写真を、これから撮影されるタイムラプスの1コマなので動画であると言い張るのも、憲法53条には期限が規定されてないから、いつ招集要求に応じるかも内閣の裁量なんて言い張るのも、小噺のネタとしてはありかもしれない。しかしそれを大真面目に主張するのはバカのやることである。



参考


このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。