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Radwimps「HINOMARU」の歌詞について


 2001年から活動している日本のバンド・Radwimpsが6/6にリリースしたシングル「カタルシスト」にカップリングとして収録された曲「HINOMARU」の歌詞が話題になっており、大新聞やテレビなどの大手メディアではまだ取り上げられていないがハフポストなどが記事化している(ハフポストの記事:RADWIMPSの新曲「HINOMARU」が波紋 「日出づる国の御名のもとに」)。Radwimpsは大ヒットを記録したアニメ映画「君の名は」の音楽を担当したことでも知られ、特に予告編などでも使用された「前前前世」は聞いたことがある人も多いだろう。兎に角人気のあるアーティスであることは間違いない。


 1000年以上前から、芸術や音楽は権力者や支配の強化維持の為に確実に利用されてきた。これは否定しようのない事実なので、「HINOMARU」の歌詞に懸念を感じる人がいることはとても理解できる。ただ、懸念を示している人の内の一体どれ程が、Radwimpsがどんなバンドなのか、どんな活動をしてきたのかについて知っているのかを疑問に思う。中には懸案の楽曲「HINOMARU」しか聞かずに懸念を示している人もいるかもしれない。更には「HINOMARU」すら聞かずに、誰かのツイートやハフポストなどの記事だけを読んで、断片的な情報で懸念を示している人もいるかもしれない。ハフポストのコメント欄を見てもそんなことを感じてしまう。昨日・6/9の投稿で書いた、何かにつけて必要以上に右だとか左だとかレッテルを貼りたがる人とは、まさにそのような人のことだ。

 自分は「HINOMARU」の歌詞に全く共感出来ない。その歌詞から、戦前に国威発揚の為に複数制作された軍歌のような印象を強く感じてしまうからだ。もし、日本が約70年前に戦争を起こさず、全体主義・軍国主義国家だった過去もなかったなら、その歌詞を純粋に「自国に誇りを持とう」と言いたいだけだと解釈できただろうし、違和感も覚えなかったかもしれない。しかし、日本は約70年前に悲惨な結果を生む戦争を起こしたし、その戦争の為に国民にどんな教育が行われ、どんな犠牲が強いられたのかを考えると、当時戦争への機運を高める為に利用された軍歌を強く連想させる歌詞には全然共感出来ない。
 ハフポストの記事によると、作詞者は「純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました」と主張しているようだが、作詞者の思いがそのまま反映されているとは言い難いし、聞き手がどのように解釈するのかという視点に欠けているのでは?と感じてしまう。

 しかし前述したように、歌詞だけを純粋に読めば・聞けば「自国に誇りを持とう」と言いたいだけだとも解釈できる、というのもまた自分の受け止めだ。その視点で考えれば、歌詞の表現に個人的な好き嫌いはあるだろうが、断定的に「政治的だ」とアーティストや楽曲そのものを否定しようとまですることは、行き過ぎではないだろうか?とも感じる。確かにこの手の楽曲には、他国・他民族などを不適切に否定・排除しようとするような勢力、言い換えれば極端なナショナリズムに利用、利用というか悪用されかねない側面がそれなりにあると自分も思う。
 もしそんなことが起きたら当然看過できないが、まだそんなことは起きていない。万が一そんな状況になってしまった際に、アーティストがそのような楽曲の利用に対して積極的に否定的な姿勢を示さなければ、そこで初めてアーティストや楽曲を否定するべき状況になるのではなないだろうか。

 「このような歌詞の曲を、多感な時期の若者に人気のあるアーティストが歌うこと自体が悪い影響を及ぼしかねない」などの、前段のような状況になってからでは遅すぎるというような見解も理解はできる。しかし、例えばアメリカでアメリカ人が星条旗を賛美する曲を歌っても、イギリス人がユニオンジャックを賛美する曲を歌っても、勿論アメリカだとネイティブアメリカンなど、イギリスだとスコットランドやアイルランドの独立派など、一部には政治的な理由で批判する者はいるだろうが、概ね日本で示されるような懸念は盛り上がらないだろう。寧ろ好意的に受け止める人の方が多いかもしれない。
 勿論それらの国と日本のこれまでの歴史は違うし、現在の状況も違う。なので、日本でも同じ判断でなければならないということではないが、歌詞の内容が軍歌を連想させるだけでは流石に不適切だとまでは言えない。勿論歌詞の内容に対する懸念を示すことには何も問題はないし、音楽は芸術作品なので好き嫌いを論じることにも問題はないだろう。しかし思想・信条の自由や表現の自由を度外視してまで否定しようとする程度の批判をこの歌詞に対して行えば、別の場合にこの件で批判する側の主張も必要以上に否定されかねなくなる。

 確かに自分も「HINOMARU」の歌詞には全く共感出来ないが、それでも批判したり、懸念を示す際のバランス感覚を欠いてはならないと、自分は強く思う。

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