スキップしてメイン コンテンツに移動
 

厚労省の役割


 厚生労働省の役割とは一体なんだろうか。昨夜「厚労省「勤務間インターバルの義務化は時期尚早」」というNHKの記事を読んで強くそう感じた。今年の2月に、裁量労働制導入の合理性を裏付ける根拠として提出された資料の杜撰さ、というか捏造の恐れがかなり高い資料が堂々と国会議論の前提となっていた事実や、その資料の元になったデータを隠蔽しようとしていたとしか思えない事態が発覚した時から、既に「厚生労働省の役割とは一体なんだろうか」と感じていた。厚労省は直近だけでも、3月に発覚した年金データの不適切な取扱い、6/2の投稿にも書いた「全ての子どもを対象にした保育無償化」に関する問題なども抱えている。しかも、どの問題も決して今に始まった話ではなく、長い間くすぶり続けている話だ。


  話を働き方改革に戻すとして、冒頭で触れた記事の案件以外でも複数おかしな点が指摘されている。加藤厚労大臣の答弁ははぐらかしに終始する所謂「ご飯論法」だという指摘(Yahoo!ニュース個人・上西充子「働き方改革関連法案:高プロへの「ニーズ」に関し、加藤大臣が1月31日に披露していた悪質な「ご飯論法」」)に始まり、すぐ思いつくだけでも、


など、不可解というか理不尽というか、適切な議論よりも法案を通すことだけが目的化しているとしか思えないような話が続出している。上記の2点もかなり強い違和感を感じた話だが、冒頭で挙げた「厚労省「勤務間インターバルの義務化は時期尚早」」(NHK)に、自分は最も強い違和感を覚えた。

 厚生労働省とは一体どのような役割の役所だろうか。ウィキペディア によると、

 その責務は「国民生活の保障及び向上を図り、並びに経済の発展に寄与するため、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進並びに労働条件その他の労働者の働く環境の整備及び職業の確保を図ること」(厚生労働省設置法第3条第1項)

と規定されているようだ。端的に言えば、厚労省の役割は国民の健康と労働者が労働する条件・権利の維持向上だろう。前述のNHKの記事によると、6/14の参議院厚生労働委員会で、野党側が仕事と仕事の間に一定の休息時間を確保する「勤務間インターバル」を義務化するよう求めたのに対し、厚生労働省の労働基準局長は

 勤務間インターバルは重要だが、突発的な事情で残業した場合の翌日の代替要員の確保が難しいなど、労務管理上の課題もある。導入している企業はわずかだ

と答弁し、義務化は時期尚早だとして努力義務にするべきだという見解を示したそうだ。彼は一体誰を向いて答弁しているのだろうか。本当に厚労省の役人だという自覚があるのだろうか。自分のことを経産省の役人と勘違いしていないだろうか。それとも厚労省は経産省の下請けか何かなのだろうか。というくらい強い疑問を感じる。
 この自分の受け止めは、NHKの記者の表現であろう「義務化は時期尚早だ」に引きずられている部分もあるだろう。しかし、自分には労働者の権利の維持・向上に努めなければならない筈の厚労省が、「雇われの分際で休息をよこせなんて言ってないで、文句があるなら一人前になってから言え」などのような、雇用者側が言い出す理不尽な言い分をオブラートに包んで言っているように聞こえる。働き方改革とは一体誰の為の改革なのだろう。一般的に改革とは、制度や状況を改善する方向で改めること、だろうが、これのどこが改革なのだろうか。

 J-Castニュースが「山里亮太の「働き方改革」で日本ダメにならない?(1) サイボウズ青野社長が答えた」という記事を掲載している。この記事の中で山里さんは残業規制・インターバル規制などを想定して、

 自分の意志で働きたい人は働ければいいのに、それもダメというルール 

と評している。対談相手の青野さんも

 一律に(残業が)ダメといわれたら相当働きづらい。「○時以降は絶対に残業してはいけない」って、ちょっとやりすぎ 

という見解を示している。彼らの言っていることは、ある意味では正しいと自分も思う。自らの意思で働くことを選んだ人間まで制限するような状況は確かに好ましいとは言えない。
 ただ、現状認識に欠けているような気もする。現状日本社会に蔓延しているのは、明らかな長時間労働・残業至上主義だ。勿論、10年前・20年前に比べたら至上主義・賛美とまでは言えないかもしないが、それでもまだまだそんな空気が支配的な職場・現場は決して少ないとは言えないだろう。そして海外では当て嵌まる言葉すらない過労死・過労自殺なんてことが、何度起きようが繰り返され続けている。勿論、過労死・過労自殺に至ってしまう人は労働者のほんの一部かもしれない。しかし、別の視点で考えれば、過労死・過労自殺予備軍がまだまだ存在しているということでもあるだろう。
 働きたい人が働くことには何も問題はないだろう。しかし、そんな話を隠れ蓑にして長時間労働を実質的に強要されることがしばしばあるから、それを何とかしようというのが現在の「働き方改革」のメインテーマではないだろうか。だから今は少し強硬に長時間労働を抑制する為に、強制し難くする為に、時間で明確に被雇用者の労働時間を区切るという対応をするべき時期なのではないか?と自分は考える。それでも決められた就業時間を超えて働きたい人は、それこそ山里さんのように個人事業主として会社と契約を結ぶという方法や、青野さんのように経営者になるという方法もある。

 結局、「一律に(残業が)ダメといわれたら相当働きづらい。「○時以降は絶対に残業してはいけない」って、ちょっとやりすぎ」と現在の状況下で言える人は、経営者に寄った視点で現状を捉えているのだろうと自分は感じる。そして自分は、冒頭で挙げた件を目の当たりにして更に、労働者の権利・労働環境の向上を重視するべき役所である厚労省も、そんな視点で「働き方改革」を捉えているとしか思えなくなった。

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。

インターミッション・途中休憩

  インターミッション/Intermission とは、上映時間の長い映画の途中に制作者が設ける「途中休憩」のことだ。1974年公開の「ゴッドファーザー2」も3時間20分の上映時間で、2時間を超えたあたりにインターミッションがある。  自分がインターミッションの存在を知ったのは、映画ではなく漫画でだった。通常漫画は1つの巻の中も数話に区切られているし、トイレ休憩が必要なわけでもないし、インターミッションを設定する必要はない。読んだ漫画の中でインターミッションが取り上げられていたので知った、というわけでもない。自分が初めてインターミッションを知ったのは、機動警察パトレイバーの3巻に収録されている話の、「閑話休題」と書いて「いんたーみっしょん」と読ませるタイトルだった。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。