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自動車・原付の制度について考える


 「自動車メーカーはもっと物言う企業になれ! そのために産業界から議員を国会に送り込め【ココがおかしい日本のクルマ&交通事情】」。クルマ好きによるクルマ好きのためのブログメディアを標榜している、クリッカーが掲載した記事の見出しで、日本カーオブザイヤーの選考委員も務めている諸星陽一さんが書いた記事だ。記事のさわりを説明すると、日本の就業人口の約8%が自動車業界で働き、日本の輸出額の約16%を自動車が占めるなど、自動車は日本の産業の大黒柱にもかかわらず、高い税金、高い保険料、理不尽な取り締まりなど、何かとクルマは“悪者”にされがちで、そんな状態だから若い人はクルマに魅力を感じなくなる。若者がクルマから離れているのではなく、制度的上の必然ではないのか? という旨の内容だ。
 クルマが悪者にされがちだという話は、諸星さんの主観的な部分も大きいが、まるで見当違いの事を言っているようには思えない。寧ろ話の要件の十中八九は的確な評価であると感じる。「自動車産業界から議員を出して自動車産業界のために働いてもらう必要がある」という話などはその通りだと思う。

 今でも続いているのかは知らないが、80年代から90年代にかけて(Wikipediaによると1971年が最初のようだが)ノーカーデーという試みがあった。自治体が毎月何日、毎週何曜日などをノーカーデーと定め、渋滞緩和・大気汚染抑制の為などの理由で、マイカー使用を控える日を設定するという施策だった。自分は免許取得当時(というか今でもそうだが)、兎に角自動車に乗りたくて仕方がなかった。運転が楽しくてしょうがなかった。どこかへ行くための手段として自動車を運転するのではなく、自動車を運転する為に目的地を探すような人間だった。酒好きが花見・忘年会・歓迎会など、酒宴を催す口実を常に探し求めているのとよく似ている。そんなタイプだったからか、ノーカーデーについて「自動車が売れないと日本経済は困ると言い、新車販売を促進しているにもかかわらず、買ったら今度はノーカーデーなどと言いだして「乗るな」とは一体どんな冗談なのだろうか」と思っていた。

 日本の自動車の税金については、日本のトップブランド、というか世界的にも一二を争うようなブランドであるトヨタの、豊田章夫社長も5/18に「日本の車のユーザーは世界(の主要国)で一番高い税金を払っている」という見解を示している(日本経済新聞「豊田・自工会会長、自動車税「ユーザーは高い税金」」より)。自分は他の国で自動車を保有したことはないし、各国の事情に詳しいわけではないので他国と比べてどうこうとは言えないが、バブル崩壊以降、自動車需要に占める軽自動車の割合が確実に増えていることは事実だ。軽自動車は普通自動車に比べて税金が安く、燃費的にも有利でランニングコストは確実に抑えられる。この傾向からも税金に限らず、日本は自動車を保有するコストが高い国なのだろうと推測できる。
 余談だが、軽自動車の新車価格も近年右肩上がりで、昨今は200万円を超える場合もけっして珍しくない。また、中古車市場でも価格は比較的高く、似たような条件であれば1000ccクラスの普通車の方が安い場合も多い。本体価格と買い替えまでにかかるランニングコストを合算すれば、勿論1台をどのくらい長く乗り続けるのかにもよるが、税金が高くても本体価格が安い小型普通自動車の方が総支出を抑えられる場合もある。走りの余裕・室内空間では軽自動車は当然不利なので、よくよくトータルコストを考えるべきだろう。

 自動車に関する制度を作っているのは誰か?と言われれば、勿論国交省や経産省の役人も関わってはいるだろうが、勿論その主体は国会議員だ。国会議員は国民投票(選挙)によって選ばれているのだから、現在の制度は国民の総意の下に構築されており、適切なのではないか?と感じる人もいるだろう。しかし、一体どれほどの国会議員が自動車行政に主眼を置いて選挙活動を行っているだろうか。また、どれほどの国民が自動車行政に主眼を置いて投票行動をしているだろうか。個人的には、日本の自動車を取り巻く状況を適切に理解しているとは言えない人達によって、制度設計がされているような気がしてならない。
 しかも、昨今は自動車自体をタバコや酒同様の嗜好品と捉え、「金持ちから取れるだけ税金を取るのは当然」というような認識が、都市部を中心にあるようにすら思える。高い税金を課した結果、自動車販売台数が伸び悩み、自国内の自動車需要を停滞させるようではある意味本末転倒ではないだろうか。
 
 6/17の投稿にも書いたが、自分は「「ダンス禁止」の張り紙再び 警察から指導「時代が戻ってしまったよう」」という記事をBuzzFeed Japanで書いた神庭亮介さんのツイートに対して、



とリプライした。原動機付自転車(50ccスクーター)の法定速度は30km/hと定められている。住宅街などを走る際には全く不自由のない制限だが、幹線道路に出ると途端に流れに乗れない不合理な規制になる。このような話をすると、「50ccは元来幹線道路を走る乗り物じゃない」とか「30km/h規制が嫌なら二輪免許を取得すればよい」という反論をしばしば受ける。前者については、ならば幹線道路は原付進入禁止にするべきなのでは?と感じる。すると、今度は「それでは原付の利便性が著しく制限されるから、幹線道路への進入自体は認めている」なんて言われるのだが、まるで「本来は走るべきでないが、お目こぼしで認めてやっている」かのような話だ。どれだけ上から目線なのだろうか。昨今の原付は決して幹線道路の流れに乗れないような乗り物ではない。
 後者の「30km/h規制が嫌なら二輪免許を取得すればよい」という話などは、そもそも論点がずれている。30km/h制限が状況に合致しているか否かの話なのに、「ルールはルールだから黙って従え」というのは議論する気すらないとしか思えない。

 この「ルールはルールだから黙って従え」が一番厄介だと自分は思っている。50ccスクーター/バイク の主なユーザーは誰か?と言えば、高校生/大学生と主婦層だろう。主婦層は自転車替わりに、高校生/大学生にも自転車替わりに使用する者もいるだろうが、原付で遠出するようなヘビーユーザーの大半は高校生/大学生、特に自動車免許を取得できない高校生だろう。言い換えれば、自転車以上の使い方をする、30km/h規制に疑問を感じる人の多くは高校生ではないだろうか。
 高校生には選挙権がない。だから「原付の30km/h制限見直し」を公約に掲げる政治家や政党が現れることはほぼないだろう。そんな公約は得票に結びつかないからだ。寧ろ彼らの親世代は事故が増えると懸念する場合の方が多いだろうし、得票が減る恐れすらある。確かに交通事故を起こす率は若年層になるほど高く、30km/h制限が事故を抑制している側面はあるかもしれない。しかし、スピードの出し過ぎで事故を起こすような者は、制限が30km/hだろうが50km/hだろうが制限を無視するだろうから、個人的には原付の30km/h規制が見直されても直ちに事故が増大するとは思えない。勿論、原付の利便性が向上し利用率が上がれば、その分事故数は比例して増える可能性はある。
 「30km/h規制が嫌なら二輪免許を取得すればよい」という主張は誰がするかと言えば、30km/h規制が嫌だから原付に乗らない人、若しくは30km/h規制が嫌で小型自動二輪以上の免許を取得した人だろう。要するに現役原付ユーザーではない人の意見の場合がそのほとんどだと思う。結局のところ、原付の制度に関しても、状況を適切に理解しているとは言えない人達によって制度の是非が議論されているのではないだろうか。国会議員の中に原付のヘビーユーザーがいるだろうか。また、過去にヘビーユーザーだった経験があっても「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の如く、「30km/h規制が嫌なら二輪免許を取得すればよい」という立場になるのではないだろうか。

 これは待機児童の問題とよく似ている。子育て世代は制度に大きな疑問を感じるが、それも当事者である5-6年程度の話で、その対象から外れると急に「自分も通った道だから、後人たちも同じような経験をすればいい、そういう制度なのだから」という感覚になってしまう人もそれなりにいるようだ。昨今はそんな感覚に対する批判も多く、待機児童問題は少子化解消の為には無視できないこととして深刻視されている。現政府の対策は決して充分であるとは思えないが、それでも数年前に比べれば確実に状況は良い方向に向かっていると言えるだろう。
 しかし、同じような構造があると感じられる原付の30km/h制限や、税金など自動車のランニングコスト高に関する問題は、そのようには認識されておらず、このままでは自動車業界が先細っていく気がしてならない。新たな柱が出来なければ、それは日本経済全体の先細りに繋がりかねない。今はまだ日本の自動車企業は世界中に影響力をもつ大きな存在だが、それを維持する為には、若い人達に自動車に興味を持ってもらうことは必要不可欠だ。その為には自動車のランニングコスト高を放置するわけにはいかないし、自動車に強い興味を抱く人の多くが初めて触れる乗り物・原付の魅力を今以上に向上させる必要性が確実にあると自分は考える。 

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