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杓子定規で不寛容


 6/6の投稿で、NHKニュースの記事「たばこ吸うため離席440回で職員を処分 大阪府」についての所感を書いた。昨日・6/16には、ハフポストが「勤務中に弁当注文。中抜け3分を半年で26回した神戸市職員を処分 厳しすぎ? の声も」という記事を掲載しており、6/6の投稿の件はタバコ云々という話ではない側面が強かったのかも、とまず感じた。しかし別の視点から、6/6の投稿でも触れた「奈良県の生駒市役所の、喫煙後45分間エレベーター使用禁止」のような事も含めて、ある種の禁煙ファシズムが広がりつつあり、その副作用として馬鹿げたルールの解釈が広がりつつあるのではないか?とも危惧している。


 日本人はルールが大好きだ。

この表現が的確か、その判断は人によって違うだろうし、勿論自分も絶対的に的確な表現であるとまでは思わない。しかし、世界的に見ても規律や協調性などを重んじる傾向が日本社会や国民には間違いなくある、と自分は捉えている。そして、それは現在の日本の治安の良さの要因の一つだろうし、戦後どん底から世界有数の経済大国にまで回復できた要因の一つでもあるだろう。そんな意味ではポジティブな側面だ。

 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という慣用句がある。このような表現は英語にも存在するようで、

  • The orange that is too hard squeezed yields a bitter juice.(オレンジを強く絞り過ぎると苦いジュースができる)
  • Too much of one thing is not good.(よくても度が過ぎてうんざりするもの、ありがた迷惑なもの)

などが同じニュアンスのようだ。
 また、日本語表現に「杓子定規」という4字熟語もある。ある基準だけで全ての、全ては言い過ぎでも、必要以上に広範囲にわたる判断に適用しようとすること、融通が利かないことを意味する表現だ。臨機応変と対になるような表現でもある。三省堂・大辞林(Weblio辞書)には、冒頭で紹介した件をそのまま言い表したような、「 -なお役所仕事」「法を-に適用する」という例文が紹介されているようだ。
 BBCが「日本の鉄道会社、定刻より20秒早く出発し謝罪」という見出しで紹介したように、 昨年・2017年の11月につくばエクスプレスで、出発予定が9時44分40秒だった列車が9時44分20秒に、20秒速く出発したことを謝罪するということが起きた。BBCの記事では海外からの好意的な反応を主に紹介しているが、国内では「過敏すぎる」という見解も決して少なくなったように自分は感じていた。冒頭で紹介した記事を初めて見た際に、自分は「20秒速く出発しただけで謝罪が必要な国だから起きた、まさに杓子定規に規則を適用した馬鹿げた処分である」と思えた。「タバコ離席を処分した同じ大阪府同様、神戸市役所にもブラック企業的な組織の風土があるんだな」とも感じた。

 自分が通っていた中学校には”チャイム着席”という校則があった。簡単に言えば「授業中は自分の席に座っていなければならない」という、それだけ聞けば、日本ではごく当たり前の規則だ。しかし必要以上に杓子定規な側面があった。休憩時間の終わりを告げる、言い換えれば授業開始を知らせるチャイムが鳴り終わるまでに自分の席に座っていないと、理由はどうあれ原則的にペナルティを受けるという規則だった。また、授業中は教師の許可が無ければ、消しゴムや鉛筆を落としたとしても、勝手に立ち上がることは一切許されないという規則でもあった。勿論こちらもペナルティ対象になる。ペナルティは掃除当番の負担増加や教師の手伝いなどだった。
 これは、恐らく自分が入学する数年前までの所謂ヤンキー/不良全盛期に、対応する為に出来た規則なのだろう。物を拾うことやトイレなどを例外にすれば、その例外を悪用する生徒がいたのだろうし、教師によって判断基準がブレることなどもあって、杓子定規に例外を限りなく排除する規則になったのだろう、と自分は当時から想像していた。この規則が、昨年話題になった黒髪強要のような所謂ブラック校則に直ちに該当するとは流石に思わないが、あまりにも杓子定規にペナルティを科すようでは、ブラック校則になり得る規則だと当時も今も感じる。ルール・規則を適切に解釈する為に必要なことに関しては、4/4の投稿「ルールの本質」でも書いた。

 BuzzFeed Japanでは、1/28に青山蜂が摘発されてから(厳密にはそれ以前からこの問題について書いているようだが、直近の話に限定するという観点)、しばしば改正風営法とナイトクラブ・バー営業に関する問題を記事化しており、6/16も「「ダンス禁止」の張り紙再び 警察から指導「時代が戻ってしまったよう」」という記事を掲載している。自分はこの記事を書いた神庭亮介さんのツイートに対して、


とリプライした。また、神庭さんのツイートに対する別の人の


というリプライを引用し、


とツイートした。
 この件に関しては、人によって様々な角度から受け止め、その是非を判断するのだろうということは重々承知しているが、大阪のクラブ・Moonが所謂ダンス規制を理由に摘発を受け、その是非に関する司法判断が下され、その結果改正風営法が2015年に成立したこと(毎日新聞の記事)を勘案すれば、東京でまた同じ様なことが繰り返されているという受け止め方が、余りにもおかしい感覚に基づいているとは言えないと強く感じている。

 日本人はルールが大好きで、それには良い側面もあるが「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という側面もままあり、一度ルールが決まってしまうと、そのルールが必要になった背景・意義などを忘れて規則・ルールの厳密な遵守だけを重視し始める、という決して見過ごすことのできない副作用も確実にある。
 それは「ルールが独り歩きを始める」などと表現される場合もあるが、ルールが勝手に独り歩きし始めるなんてことは全くなく、拡大解釈・歪曲した解釈をする者が、本来の趣旨とは別の意味でルールを用い始める、恣意的に利用する、厳しく言えば悪用するということだろう。ルールが独り歩きするんじゃなく、一部の人間があらぬ方向にルールを台車か何かに載せて運び、あたかもそれが適切であるかのように振舞い始めるだけだ。共謀罪に関する懸念も、集団的自衛権の一部容認に関する懸念も、高度プロフェッショナル制度が導入されようとしている事への懸念も、そんな日本人がこれまで何度も起こしてきた、日本社会でこれまで何度も起きてきたことを考慮した上での懸念だと言えるだろう。
 ダンス禁止を根拠にした取り締まりについて、「馬鹿げててもそれが法律。嫌なら国会議員に働きかけるなどして法律を変えたらよい」などという感覚は、その視点が全面的に間違っているとまでは言えないかもしれないが、少なくとも自分の目には副作用・拡大解釈・曲解そのものだと映る。というか法の悪用、厳しく言えば脱法行為の恐れさえあるのではないだろうか。

 あまりにも厳密にポリティカルコレクトネス(ここでは言説に限らず、行為まで含めた広義でのそれ)を重視し過ぎると、いいか悪いかは別として、それに対するカウンターが巻き起こされることは既に明らかだ。規則・ルール・法律を軽視することは、法治国家・民主主義の実現・維持の為には確実に欠かせないが、その規則・ルール・法律を作ったのは不完全な存在である人間だし、完全に明確な定義が出来るとは限らない人間の言語でしか規定出来ないのだから、適宜適切に解釈する・運用することが重要であるという視点は、どんな場合でも必要不可欠なことだと自分は考える。

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