スキップしてメイン コンテンツに移動
 

ミスコンテストとは何か


アメリカのミスコンテスト「ミス・アメリカ」で、水着審査が廃止されることになった。主催団体が6月5日、今後は出場者を容姿で審査しない方針を示した。

  ハフポストの記事「マジで?「ミスアメリカは美人コンテストではない」主催者が衝撃発言 水着も廃止」はこう伝えている。ミスコンテストの審査の大きな要素として、自分は容姿端麗であることは欠かせない条件だと思っていた。勿論、今後ミスコン自体の在り方、定義が変わっていくとしても、おかしなことは何もないだろうから、方針転換が起きてもいいとは思う。しかし、ミスコンから容姿に関する審査を無くしたら、他のコンペティションとの差異が薄くなり、存在意義も薄くなるのではないか?と自分は思う。



 Wikipediaのミス・コンテストのページには、その歴史について以下の記述がある。

世界初の美人コンテストは1888年9月16日にベルギーで開催されたものといわれている。また、世界で初めて水着審査を設けたミス・コンテストは1921年9月7日にアメリカ合衆国ニュージャージー州アトランティックシティで開催されたミス・アメリカコンテストとされている。女性を外見で評価するため、反対運動もあり、規模を縮小する例がある。

Wikipediaに掲載された内容が、適切な表現かどうかなどの視点もあるだろうが、世界初の美人コンテストがミスコンテストの始まりとして認識されているということには概ね間違いはないのではないだろうか。勿論、未だに世界的に見れば男尊女卑傾向があることは確かで、ミスコンの女性を外見で評価する側面を嫌悪してしまう人がいることは理解できるし、そのような主張が全く適切ではないなどと言うつもりはない。

  ただ、外見だけで評価を下される場合があるのは、何も女性に限った話ではない。例えばボディビルの大会では男女ともにその筋肉の美しさ、要するに外見で評価が下されるし、モデルや俳優などの芸能活動全般においては、外見だけとは言えないだろうが、個人の評価に占める外見の比重は、その他の職業に比べて確実に大きい。その点に関して男女に大きな差があるとは言い難い。また、芸能事務所が新人発掘の為に行うオーディション、海外で言えばオーディション系リアリティ番組なども、ある意味ではミスコン的だし、外見が評価の大きな部分を占めていることは周知の事実だ。しかし、それについて適切な状況ではないと考える人がそれほど多いとは思えない。
 また、例えばプロ野球選手は概ね野球の技術だけでその価値を判断される。勿論個人が持つタレント性、言い換えれば客を呼べるか否かも加味はされるだろうが、 そのタレント性の中には当然容姿も含まれるだろう。また、受験では座学の知識・学力だけでその人の価値を推し量り、その合否を決定する。言い換えれば学力だけで評価を下されるわけだ。勿論昨今はAO入試という、所謂一芸入試のような学力によらない評価で合否が決定される方式もあるにはあるが、受験では概ね学力のみで評価が下るという認識は、大きな誤認とは言えないだろう。なぜ外見で評価することをそこまで嫌悪するのか自分にはよく理解出来ない。勿論個人の好き嫌いという意味での嫌悪なら全く否定しないが、外見で評価する側面のあるミスコンを行うべきでないというのは、いささか強すぎる批判、個人的なエゴが含まれ過ぎているように思う。

 今朝のMXテレビ・モーニングCROSSでもこの件を取り上げており、この日のコメンテーターだった正能茉優さんがこう述べていた。

 (水着審査・外見の評価がなくなれば)ミスコンがビジコン(ビジネスコンテスト)になっちゃうと思う。ミスコンは外見の美しさも含めて、或いは外見の美しさをベースにどんな人なのかというのを見るコンテストである筈なのに(であった筈なのに)、そのまま大きな転換点を迎えるっていうのは、社会的には意義のあることだと思うんですけど、例えば大学のミスコンで見た目関係なく、やっている事とか社会的な影響力で(だけで判断する)って言うのは、果たしてその子達カワイイの?。それって(これまでの)ミスコンじゃないよねって思うと、ミスコンというもの自体の定義が見直されているんだなと思いました。

また彼女は、

 女の人の綺麗さとか美しさって、勿論先天的にかわいい子もいるんですけど、後天的に努力してかわいくなってる人もいると思うんですよ。水着審査ってスタイルを見られるわけじゃないですか、そこって自己管理をしているかどうかって世界でもあるので、だからこそ私は、女の子の目線で見ると「この人こんなに頑張っているんだ」と思う象徴だったのに、それが無くなっちゃうと寂しい気持ちになる。

とも述べていた。 これは同じくこの日のコメンテーターだった中谷彰浩さんの同じような趣旨の発言を受けてのコメントだったが、とても共感できる話だった。プロ野球選手やサッカー選手だって、先天的な運動能力の高さは勿論あるだろうが、同時に他人よりも努力をしてきたから評価されてプロ選手になれるのだろう。難関大学に合格する者も、同様に先天的に学習に向いているという側面もあるだろうが、同時に他人より努力を重ねた結果で合格という評価を受けることが出来たはずだ。なのに、なぜ外見を磨く努力とそれを重視した評価を同様に考えられないのだろうか。

 かなり乱暴かもしれないが、このような観点で考えれば、ミスコンの外見評価の側面を否定するなら、その他の芸能活動も、身体的な表現を芸術的に評価する運動競技も同様に否定しなくてはならないかもしれないし、プロ野球選手を野球能力を重視して評価すること、受験で学力を重視して評価を下すことも否定しなくてはならなくなるかもしれない、なんて思えてしまう。
 F1のグリッドガール廃止の件に言及した2/3の投稿でも同じようなことを書いたが、ミスコンから外見評価の側面を薄め、他のコンペティションとの差異を縮めてしまうことには、結局女性が活躍する場を減らすことに繋がる副作用もあると考える。確かに「男性が性的な視点だけで女性を外見だけで評価している」と捉えれば、嫌悪の対象になることも不思議ではないが、必ずしもそんな側面ばかりだとは自分には思えないし、そのような思考は短絡的ではないか?と感じてしまう。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。