小野田紀美・自民党参議院議員の昨夜のツイートに、にわかに注目が集まっている。当該ツイートは、
憲法で定められた国民の義務は「勤労、納税、教育を受けさせること」。義務を果たしていれば権利を主張して良いと思うし、どんな生き方をしようとどんな考えを持とうと、それが犯罪でなければ個人の自由だと私は思っています。自由には責任が伴いますが、それを覚悟で私も自由に生きています。— 小野田紀美【自民党 参議院議員】 (@onoda_kimi) 2018年7月25日
いくら押さえつけても人の心なんて変わらない。他人が踏み込んでいい場所じゃない。私もよく結婚しろ子供産めと言われますが、嫌がる人に勧める暇があったら、欲しくても作れない人達の望みを叶えられる社会の環境整備にもっと本気出すべきで、私はそちらに人生の時間を使いたいと思っています。— 小野田紀美【自民党 参議院議員】 (@onoda_kimi) 2018年7月25日
という、スレッド化された一連のツイートだ。最早説明不要かもしれないが、注目・批判が集まっているのは、冒頭の表現「憲法で定められた国民の義務は「勤労、納税、教育を受けさせること」。義務を果たしていれば権利を主張して良いと思う」だ。自分はこの件について、2つの点に注目した。
まず1つ目は、多くの人が感じたのと同様、前述の冒頭の表現への違和感、というか寧ろ不快感だ。 義務を果たしていれば権利を主張して良い、ということは、逆に言えば、義務を果たせない者は権利を主張してはならない、してはならないは言い過ぎだとしても、権利の主張を自粛しろ、と言っている様に聞こえる。要するに小野田氏も、7/23の投稿で指摘した杉田議員や、昨日・7/25の投稿で触れた、杉田議員の主張を明確に非難しない自民党の現職大臣ら、容認とすら思えるような発言をしている二階・自民党幹事長ら同様に、憲法で認められた権利の一つ・基本的人権の何たるかを理解出来ていないのだろう。でなければ「義務を果たしていれば権利を主張して良い」なんて表現は出来ないのではないだろうか。杉田氏の主張を初めて聞いた際は、自民党はなぜこんな主張をする者に公認を与えているのか?と不思議に思ったが、昨日の投稿にも書いたように、自民幹部らが杉田氏への批判・非難に及び腰、更には容認・黙認する様子を見ていると、その理由がよく分かる。杉田氏が特異な存在なのではなく、杉田氏の主張は自民党の方針をそのまま表しているだけなのだろう。彼女の主張は党の方針と異なるという旨のコメントも見られるが、杉田氏の主張を明確に批判しないのだから、そんなのは単に批判が党に及ばないようにする為の建前・スタンスに過ぎないように見える。小野田氏の当該表現もその流れ、要するに自民党内の平常運行なんだろう。
小野田氏は2つ目のツイートにおいて、恐らく杉田議員の「LGBTには子供ができないから生産性が低い」という主張を前提に、それに対してどちらかと言えば異を唱えているようにも見える主張をしているようだ。この自分の受け止めが、彼女の主張の意図と合致しているかどうかはわからないが、自分にはそのように感じられた。この点を勘案すれば、小野田氏の「義務を果たしていれば権利を主張して良い」という表現に大意はなく、恐らくあまり深く考えずにこの表現を用いたのだろう。しかし、前述のように権利と義務の関係を正しく理解していれば用いることはない表現で、彼女が議員にもかかわらず、憲法の精神をよく理解していないことはほぼ間違いない。また、よく考えずにそんな表現を用いて主張したこと自体が、国会議員の言動として確実に不適当だ。
例えば、いじめが起きた際に加害者側が「いじめているという意識はなかった」とか、「いじめとは思っていなかった」などと釈明・弁明することがある。その意識・認識が嘘ではない場合も勿論あるだろうが、意識・認識がなければ行為が許されるわけではない。ましてや立法府の人間が、憲法の根幹でもある義務と権利に関して無理解であること自体が、批判・非難されて当然のことであり、前後の主張を勘案しても、小野田氏は批判されて当然だろう。
2つ目は、前段の後半ともかかわる話だが、このように政治家やタレントなどのツイートが槍玉に上がると、必ず「前後のツイートを読めば批判は当たらないことは明白」とか、「主張した人間のこれまでの振舞い・人間性も考慮して批判するべき」などと擁護する声が聞こえてくる。確かに前後のツイートを読めば、批判が大きすぎるように思える場合もしばしばある。
そのような場合に、擁護する者が「一つのツイートだけを切り取るな」などという見解を示す場合がある。 個人的にはツイッターの仕組みが分かっていないからこんなことを言うのだろうとしか思えない。そんなに前後に大事なことが書いてあるなら、最低限スレッド化しておくべきだし、寧ろツイッターの文字数制限内で的確に表現できないようなら、ブログで記事化するなどして、そのリンクを貼るべきだ。ツイッターは仕組み上、1つのツイート単位でリツイートできるし、引用してブログ等で紹介することも可能だ。確かに1つのツイートだけを見て判断・批判するのは主張を切り取る行為かもしれないが、ツイッターでの主張は切り取り線を自らつけて主張しているようなものなのだから、ツイートしている側は、ツイッターの仕組み上、1ツイート単位で切り取られる前提でツイートするべきだろう。
ツイートした者のフォロワーの目には、注目されたツイート以外のツイートも入ってくるだろうが、フォローしていない者には当然そんなものは見えない。ツイッターの仕組み上1ツイート単位で批判を受ける・反論されるのは当然のことだ。だから、言いたい事が1ツイートで収まらないのであれば、せめて関係のあるツイートや補足ツイートをスレッド化して、誤解されないように努める必要がある。
要するにツイッターはその仕組み上、主張が極端になったり言葉足らずになったりする傾向が他のメディアに比べて強い。自分は少し前まで、この傾向は若者やネットに傾倒している中高年などに強い傾向だと思っていたが、橋本元大阪市長などのように頻繁に暴言ツイートをするような者や、「批判なき政治」というツイートをした元アイドルの今井議員、そして今回の小野田氏などを見ていると、最早政治家にすらその傾向が出てきていることは明白だ。
政治家とは一体何が本分かといえば、主張・論戦・表現もその一つだろう。このような政治家は果たして本当にその本分を全う出来るだろうか。憲法をよく理解しない議員が大勢いる政党が、改憲!改憲!などと声高に叫んでいることにも懸念を感じるが、同時に、日本語を上手く使えない政治家が議員として議論をしていることにも懸念を感じる。昨今、不適切な発言を指摘されると「誤解だ」と言う政治家・議員が大勢いる。そもそも誤解を生むような表現をすることは、政治家・議員としての資質に欠けていることだと理解しているだろうか。どうも彼らは「あーはいはい、誤解誤解(笑)」のように、軽々しく考えているように見えてならない。議論のプロ・言葉を扱うプロとしての意識に著しく欠けているとしか思えない。
こんな状況で、更に議員を増やす法律を成立させた政党は一体何を考えているのだろう。自分には、ただただ自分たちの利益だけを考えているようにしか思えない。