地域によっても差があるだろうが、日本では8月末で夏休みが終わり、9月から新学期が始まるという地域が多いのではないだろうか。8/25あたりから、夏休みが終わり学校が始まるこの時期は子供の自殺が増えるので、大人はより一層留意するように心掛けよう、子供に対しては「無理に学校に行かなくてもいいんだよ」というような啓発?があちらこちらで行われている。
SNS上では「学校に行かなくてもいいが、逃げ癖がつく」などという心無い主張も見かけるが、そのような事を言う人は、”学校に行くことが人としての絶対条件”のような認識を他人に押し付けることこそが、子供を自殺に追い込むということを理解していない、若しくは「その程度で死ぬ奴は死ねばいい」程度にしか考えていないのだろう。このような事を言っているのが大人かどうかは定かでないが、もし大人が言っているのであれば、子供社会からもいじめがなくなる筈はない。子供は大人の映し鏡だ。
夏休みが終わるこの時期、もう一つ話題に上がるのは、読書感想文・自由研究などの夏休みの宿題についてだ。インターネットオークションサイト、日本ではヤフーオークション(ヤフオク)が一般化し、ネット上での個人間取引が一般化して久しいが、近年オークション方式ではなく、出品者が販売価格を提示する所謂インターネットフリーマーケットサービスのメルカリが台頭し、ネット上での個人間取引はより一層身近になっている。そんな状況もあってか、近年は夏休みの宿題向けの商品?を出品する者も少なくなく、また購入し利用する者も少なくないようだ。そんな状況を憂慮したのか、文部科学省は8/29、フリーマーケットサイトを運営するメルカリなど3社との間で、子供の「宿題代行」の出品を禁止することで合意に達したと発表した。産経新聞の記事「宿題代行のネット出品禁止 文科省、運営3社と合意」によると、メルカリ・ヤフオク・楽天 の大手3社が該当する出品の削除を始めたようだ。
文科省はこの施策を行う理由について「宿題を代行してもらっては何も身につかない。対応を進め、自分で取り組む大切さを周知していきたい」としているそうで、確かに言っていることには一理あるだろうが、個人的には一理しかない、というか積極的には好意的に評価できないと思っている。
「夏休みの宿題に最適!」とか「自由研究にどうぞ」とか、「わざと小学生っぽく演出しました」など、あからさまに夏休みの宿題向けを謳った商品の出品を規制することに反対するつもりはない。しかしそのような謳い文句がない場合、一体何を以て「夏休みの宿題向け商品」と判断するのだろう。勿論私企業が行うサービスなので、独自の基準で、たとえば工作・手芸作品は一律出品禁止としたり、本の読後感を書いた文書の一律出品禁止としても良いのかもしれないが、恐らく利用者の賛同は得られないだろうし、運営者も今回の件をきっかけにそこまで極端な対応はしないだろう。何を言いたいのかと言えば、単に夏休みの宿題を想定した商品から、その手の文言が消えるだけで、大した実効性のある施策ではないのでは?と感じる、ということだ。
また、一部で言われているように、昔から夏休みの宿題を親が手伝うことはしばしばあった。確かに”手伝う”という程度ならば何も悪いことはないが、中には親が丸々代行することもあるだろう。そのようなことを勘案すると、結局のところ、子供の宿題のアウトソーシング先が親からネット上でつながった誰かに変わっただけではないのか。文科省がわざわざ咎めるようなことなのか、という疑問も湧いてくる。
全てがそのようなケースと言うつもりはないが、親が宿題を肩代わりする動機の多くは、中学受験に向けた勉強の為の時間の確保という場合もあるだろう。要するに、夏休みの宿題自体に意義を見出せないから親が肩代わりするとも言えるだろう。親が肩代わりするのは仕方がないが、ネット上の誰かに金を払って肩代わりするのは見逃せない、という話に果たして合理性はあるだろうか。中学受験を考える親・児童は、冬休みが明けると、受験への対策を理由に学校行事に参加しなかったり、授業すら休む場合もあるようだが、夏休みの宿題代行を咎めるなら、そのような親・児童にも同じ様に対応しなくてはならなくなるのではないだろうか。
夏休みの宿題・自由研究については、8/23の投稿でも書いた。その中で、
自分の記憶の限り、自由研究とは文字通り”やるやらない”だけは自由ではなかったが、内容・形式などを問われる事はなかった。と書いたが、やるやらない、提出さえも自由でいいのではないだろうか。どうも日本の学校教育では、 読書感想文にしても推薦図書などを読んだ感想を求める場合が多いし、自由研究にしても、学校の授業の延長線上でなくてはならない、というような枠に嵌めようとする意識が強いような気がする。それではやりたくない、適当に買って提出すればいい、と考える者も相応に現れるだろう。
例えば、虫が好きな子は虫の標本作りや観察をすればいいだろうが、テレビゲームが好きな子は自分が好きなゲームの攻略をテーマに自由研究してもいいのではないだろうか。また、感想文だって活字の本に限らず、映画・マンガ・アニメ作品の感想文でもいいだろうし、ストーリー性のあるゲームの感想文なども認めるべきではないのか。もっと言えばストーリー性のないゲームでだってプレイ後の感想はあるだろうし、サッカーや野球の試合を見ても試合の感想文は書けるだろう。なぜ対象を活字の本、しかも推薦図書に限定したがるのだろう。8/23の投稿の中にもあるように、教員側の「評価しやすい」という点だけが重視されているとしか思えない。
感想文も自由研究も、もっとテーマを自由にすれば、子供たちはもっと興味を持って取り組むのではないだろうか。現に、近年は子供のなりたい職業の上位にYoutuberが必ず入るが、彼らがやっていることは「やってみた」という形態が多く、興味に基づいた素朴な疑問をテーマにしている。自由研究とは本来そういうことなのではないだろうか。特に”自由”研究にもかかわらず、自由があまり認められないのは如何なものか。
研究とは、必ずしも役に立つこととは限らない。自分は自由研究として昆虫採集・標本作りをしたことがあるが、経験としては無意味ではなかったが、現在昆虫への興味は殆どないし、標本作りもそれ以来していない。この先もし役に立つとすれば、子供が標本を作りたいと言い始め時ぐらいだろうが、残念なことにまだ子供はおらず、そんな時が来るかは定かでない。
自分が小6の時、「ハローページの読書感想文」を夏休みの宿題として提出したやつがいて、先生がその発想をとても褒めるということがあった。そんな先生がもっと増えてもいいのではないだろうか。自由な発想を押さえつけるようなことをしなければ、子供たちも率先して取り組むようになるのではないか?と想像するし、そうすれば代行を利用しようという子供も親も減るのだろうと考える。
文科省がやるべきことは、「宿題を代行してもらっては何も身につかない。対応を進め、自分で取り組む大切さを周知していきたい」などとして、個人間取引に規制を掛けることではない。自分で取り組む大切さを周知したいのなら、子供たちが率先して取り組みたくなるようなお膳立てをするべきだろう。嫌々やらされたと思えば、 それはそもそも「自分で取り組んだ」ではなく「他人にやらされた」ことだろうから、そこを勘違いしてはならないと自分は感じる。