電気止められ、熱中症で札幌市の女性死亡 「環境問題は格差問題だ」と専門家ハフポストが8/30に掲載した記事の見出しである。読んで字の如くの記事なのだが、最高気温31度の7/29の札幌で、女性が熱中症で亡くなった、女性は一人暮らしで生活保護を受給しており、部屋にクーラーや扇風機があったものの、料金を滞納していたため5月から電気が止められていた、という事を伝えるだけでなく、2012年に起きた、札幌や埼玉で電気やガスを止められた者が凍死した事件などを交え、社会福祉・社会保障と環境・生活インフラの問題の関連性について記述されている。また、国会終盤で持ち上がった水道事業改革(一部民営化)への懸念、民営化を進めているアメリカでの対策などについても論じられており、多くの人に読んで貰いたい記事である。
昨日・8/30の投稿の冒頭でも触れたが、いじめの問題に対して「学校に行かなくても大丈夫」と言う人がいる反面、「いじめは社会に出てからも遭遇する。学校に行かないことは単なる”逃げ”でしかない。そんなメンタルでは社会に出てもやっていけない」なんてことを言う人がいる。本人は「強くなった方が生きやすい」と好意的にアドバイスしているつもりなのかもしれないが、それが出来るならば、そもそも学校に行きたくないなんて悩むこともないだろうし、大人社会にいじめがあるのだとしたら、それに上手く対処できるように強くなることも必要ではあるが、何よりもまず大人社会のいじめ、要するに差別的な言動やハラスメント等を無くす努力をしなくてはならないのではないか。自分には、痴漢される女性にも落ち度がある的な話に聞こえてしまい、全然共感出来ない。問題があるのは圧倒的に痴漢する側だし、いじめる側だし、いじめを黙認する社会構造ではないのか。
人間に感情がある限りいじめを根絶することは出来ないだろう。しかしだからと言って、いじめを受けても甘受しなければならないということではないし、いじめに対して抗うことも、いじめを避けようと別の環境に身を移すことも決して「逃げ(にげ)」ではない。それは「逃げ」で、そんなメンタルではやっていけない、と言う人達は、例えば戦火を逃れて国外に救いを求める難民にも「国外に逃れるなんて、そんなメンタルではやっていけない」と 言えるだろうか。強姦されそうになって助けを求める女性に「逃げるな、戦え、そんなメンタルでは社会でやっていけない」と言えるだろうか。
要するに、彼らのような主張は、他者への共感力が欠如している、いじめを受けている者を軽視している、極端に言えば、いじめを受けているなんて発想自体が甘え、のような発想に拠るものだと思う。いじめに直面して自殺の直前にまでいる子供のことを考えたら、安易に「学校に行かない=逃げ」なんてことを言えないだろう。そのようなことを言えるのは、弱い者の立場を理解しようとしない、自分や周囲経験だけを基準にして考えている、などの思考が背景にあるようにしか思えない。
この手の発想を持つ者は、日本人のごく一部だと思っていたが、8/29の投稿にも書いた「障害者雇用の水増し問題発覚」、関わった役所の膨大さ、そして更に増えそうな勢いを見ていると、実はそのような発想の者は決して少なくないのではないか、言わないだけで大勢予備軍がいるのではないかと思えた。
訪日外国人を扱うテレビ番組では、日本人はとても親切な人が多いという印象を強調しがちだし、東京オリンピック招致に際して、元アナウンサーのタレントが「お・も・て・な・し」が日本の精神だとアピールしていた。だが、多くの役所、しかも中央官庁が揃いも揃って障害者雇用を誤魔化していたのを目の当たりにすると、日本人は本質的に親切なのではなく、外面・他からの評価を気にして体裁を取り繕う為に親切に振舞っているだけなのでは?と思えてしまう。各大臣らは水増しは故意ではない可能性もある、なんて苦しい事を言っている。大体故意か否かなんて大した問題じゃない。障害者雇用促進法が定められているにも関わらず、それを無視するような行為が何十年も続いてきたことが問題なのだ。
以前にもこのブログで引用したかもしれないが、ザ ブルーハーツの曲・トレイントレインの中に「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく」という歌詞がある。本質的に人間、少なくとも日本人の大半は、誰か何かを下に見て優越感を得たいのだろう。このように書くと、そのような感覚が全面的によろしくないことに聞こえるかもしれない。しかし自分にだってそういう感覚は少なからずある。そして、そのような感覚が一方では努力の原動力にもなるだろうし、進歩の為の燃料にもなっている側面もあると思う。だから個人的には優越感を求めるところまでは悪いこととは思わない。
しかし、自分が上がって優越感を得るのはよくてもが、他人を叩いて下げて優越感を得ても殆ど得るものはない。得られるのはそれこそ一時の優越感だけだ。実際はそれにすがって、それを糧に生きている人もいるだろうが、もし自分がその人の糧の為に叩いて蔑まれるのはまっぴらごめんだし、彼ら自身も理不尽にそのような扱いを受ければ不満を感じる筈だ。要するに、他人を叩いて下げて得た優越感を糧に生きている人がいたとしても、それを肯定することなど到底出来ない。
何が言いたいのかと言えば、私たちの多くには優越感を得たいという感覚があり、時にそれが弱者への攻撃に形を変えることもある、だから常に、常には無理でも、たまには自分がそのような行為に及んでいないか振り返ることが必要だ、ということだ。
今朝のMXテレビ・モーニングCROSSで、「差別って騒ぐ奴ほど面倒くさい奴いないわ」という視聴者ツイートが表示されていたが、差別をいじめに置き換えれば、そういう感覚が人をさらに追い詰め最悪自殺に追い込むし、障害者雇用の水増しが続けられてきた理由でもあるし、そして他者への共感力の欠如以外の何ものでもない。
先のアメリカ大統領選や都知事選、オリンピックのスローガンなどでも、○○ファーストなんてことが流行りのように言われる。元は、一般国民や市民、現場のスポーツ選手など、立場が弱い者の権利向上という意味合いだったのが、最近は○○ファーストと聞いても「俺が、俺が、で他者を排除」する為の合言葉になっているように思えてならない。