大きな波紋を呼んでいる新潮45、LGBTへの偏見の問題について、新潮社が当該誌の休刊を発表した。これについて「言論弾圧」だの「言論統制」だのと不見識な主張をあちらこちらで見かけるが、黒人の権利をこれまで一方的に抑圧してきた歴史を考慮もせず、場合によっては「黒人によって白人社会が脅かされている」などと、差別を無理やり正当化しようとする白人至上主義者の発想と大差なく、強い嫌悪感を抱く。そもそも言論弾圧も言論統制も、政府や有力な政治勢力等が権力を背景に、強権的に言論・表現の自由を一方的に抑圧する行為を指す。民間から噴出した不適切な行為への批判や抗議行動に「言論弾圧」「言論統制」とレッテルを貼るのは、それ自体が言論・表現の自由を不当に抑制しようとする言説である恐れがある。新しく覚えた言葉を兎に角使ってみたい子供のように、意味を歪曲するのは止めた方がいい。評論家や何かしらの専門家を自称する者は尚更だ。
新潮社が自社サイトに掲載した「新潮45」休刊のおしらせは以下の内容だ。
弊社発行の「新潮45」は1985年の創刊以来、手記、日記、伝記などのノンフィクションや多様なオピニオンを掲載する総合月刊誌として、言論活動を続けてまいりました。
しかしここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。その結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」(9月21日の社長声明)を掲載してしまいました。このような事態を招いたことについてお詫び致します。
会社として十分な編集体制を整備しないまま「新潮45」の刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思いを込めて、このたび休刊を決断しました。
これまでご支援・ご協力いただいた読者や関係者の方々には感謝の気持ちと、申し訳ないという思いしかありません。
今後は社内の編集体制をいま一度見直し、信頼に値する出版活動をしていく所存です。
文中にもあるように、9/23の投稿でも触れた、同社が9/21に掲載した社長声明を踏襲した内容だ。この休刊のお知らせにせよ、社長声明にせよ、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」があったとするものの、一体何が常軌を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現だったのかに関しては一切言及がない。これではとりあえず謝っとけ感しか感じられない。また、休刊のお知らせには「このような事態を招いたことについてお詫び致します」や「これまでご支援・ご協力いただいた読者や関係者の方々には感謝の気持ちと、申し訳ないという思いしかありません」など、謝意を感じさせる表現はあるものの、自分には、騒ぎを起こしてごめんね、取引先等に突然の休刊で迷惑かけてごめんね、と言っているようにしか感じられない。偏見と認識不足の標的にされた人達への謝罪とは到底思えないし、謝意があるようにも思えない。これでは、新潮社は、責任の所在等は有耶無耶にしたまま、新潮45の休刊で兎に角幕引きを図ろうとしているようにしか思えない。更に穿った見方をすれば、冒頭で触れた不見識な見解を醸成する為に、「私たちは口を封じられた被害者」感を醸し出したかったのかもしれないと邪推してしまう。
それはさておき、新潮社は部数低迷でいい加減な雑誌編集が引き起こされたと自ら認めている。商業誌において売り上げは重要な問題だが、利益を重視するあまり差別や偏見を撒き散らすようでは困る。自分は、新潮社がこのような声明を発表したことで、9/20に民放連が「憲法改正の是非を問う国民投票に関するテレビやラジオのCMについて、量を自主規制する統一的な基準は設けず、各放送局の判断に委ねる」方針を決定したこと(東京新聞の記事)への危惧を改めて感じさせられた。
出版や新聞などとは異なり、現在テレビ放送には放送法4条で
- 公安及び善良な風俗を害しないこと
- 政治的に公平であること
- 報道は事実をまげないですること
- 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること
何が言いたいのかと言えば、憲法改正や国民投票に関するCMに関して、判断を欠く放送局に委ねるという緩い方針は、一見多様性の尊重のようにも見えるが、場合によっては新潮45のように、どこかの放送局、もしくは番組が、多様性や表現の自由の恣意的な解釈をし始めるような事態にもつながりかねないのでは、と危惧するという事だ。
新潮45の件について、「杉田や小川、そして新潮45の表現の自由を認めろ」と主張する人に対して、自分は「他人の権利を侵害したり蔑ろにするような表現は自由の範疇でないし、多様性を否定することが多様性の1つとして認められることもない」と何度も言っている。何故ならそのどちらも大きな矛盾を孕むからだ。
民放連がどんな経緯でそのような方針を決めたのか定かでないが、「政党などの表現の自由を、放送事業者の自主規制で制約することは避ける必要がある」「個別のCM内容を分類し、量的公平を図ることは実務上困難」なんて建前で、利益重視に偏らないことを祈る。特に後者の言い分は、メディアとしての役割を放棄しているようにすら感じられ、このままでは新潮社の二の舞になる局が現れかねないと危惧する。