沖縄・読谷村で9/7の夜に、酒に酔った米陸軍の兵士が上半身裸で村民宅に無断で侵入するという事件が起きた(毎日新聞の記事)。この時在宅していた高校2年生の長女は、生後5か月の妹を連れて窓から裸足で逃げ出したそうだ。米兵がどんな目的で不法侵入を犯したのかは明らかにされていないが、場合によっては傷害・強姦、最悪の場合”致死”なんてことにもなっていたかもしれないと思え、ゾッとさせられる。しかし一方で、どこか「またか」程度にしか思えず驚いていない自分もいる。そんな自分の感覚にも嫌悪を感じてしまう。
沖縄だけで考えても、不法侵入や傷害事件・強制わいせつ事件を起こすのは米兵だけではないだろう。日本全体で考えたら確実に日本人起こす事件の方が多いはずだ。しかしそれは米兵に限った話ではなく、他の外国人にも言えることで、特に一部の人々が強烈に嫌悪している韓国・中国人でも同じことだ。所謂嫌韓・嫌中論者たちは、一部の不良外国人が起こす事件を見て、まるで全ての外国人、特に韓国人・中国人が犯罪者・不良かのように論じるが、彼らは何故米軍・米兵を同じ様なスタンスで批判をしないのだろうか。勿論一部の外国人・米兵の行いだけを見て、全ての外国人・米兵にレッテルを貼るのは確実に不適切だが、出自・所属等でそのレッテルを貼るか否かを変えるようでは、その論の乱暴さはさらに際立つことになる。
一部の米兵が起こす事件を以て、米軍全体がそうであるとレッテルを貼るようなことは適切とは言えない。しかし、同じような事件が繰り返されるにも関わらず、日米地位協定の不公平な内容が見直されることはなく、日本側は抜本的な対策を行うことが出来ない点は大きな問題であると言わざるを得ない。米兵の起こす事件への対策は、基本的に米軍にしか出来ない状況なのだから、同じ様な事件が繰り返される事について、米軍の責任を追及することは自然だし、適切な対応がなされず事件が繰り返されるのなら、米軍全体が嫌悪されるのもある種当然の成り行きだ。その延長線上で、在沖米軍の縮小・撤退を求める人が出てくることも仕方がないと言えそうだ。
このように考えれば、米兵が起こした事件によって米軍全体への批判が高まるのは、嫌韓・嫌中論者が一部の韓国人・中国人が起こす事案だけを見て、それを韓国・中国の全体像かのようにレッテル貼りをする事と、同列に扱えるようなことではないだろう。
9/19の投稿・9/21の投稿でも取り上げた新潮45の酷い企画について、新潮社の社長が
弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。という所感を9/21に自社サイトで発表した。不適切だなんだと言いつつ、結局は言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを理由に、「差別的表現もその範疇である」という感覚が滲み出ているように思う。謝罪の言葉がないことや、関係者の処分、当該誌の回収などの対処を講じないことからもそれを強く感じる。幹事長が「人生観もそれぞれ」などと、事の発端になった杉田議員の差別的な主張を容認し、処分も本人の発言撤回もなく、ましてや謝罪すらもなく、注意という処分でお茶を濁した自民党と団栗の背比べの対応としか言いようがない。
しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。
差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。
弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。
この所感発表が掲載された日よりも前の9/19の話なので、これを勘案した上での対応ではないのだろうが、ハフポストの記事「新潮社の本、書棚から撤去する書店も。「新潮45」の寄稿に怒りの声」によると、和歌山と東京の書店が新潮社の本全般のボイコットを表明したそうだ。この記事に
うーん、それでも言論の自由は存在するわけで。封殺するような事はすべきじゃないと思う。
というコメントが投稿されていたので、自分は、
言論の自由とは「何を言っても構わない」ということではない。自由には常に責任が伴わなくてはならない。
また、大手出版社よりも権力のある、例えば政府等の行政機関が出版社の活動全面禁止・出版全面差し止めなどの処分をすればそれは「封殺」の恐れありだろうが、大手出版社に対して町の書店が販売を取り止めることが「封殺」に当たるとは言えない。
もう少し状況を的確に捉えてから考察した方が良さそう。
とリプライした。新潮45が差別的な主張を含む文章を掲載するのは今回が初めてではない。しかも、今回は前回の件を開き直るような内容の企画で、寧ろ酷さは更に増していると言わざるを得ない。そんな他人の権利を侵害するような側面のある企画を出版社が2度も許し、しかも前述のような消極的な所感を示すだけであれば、事の重大さを的確に理解しているとは言えず、2度あることは3度あると考える者が出ても仕方がないと言えそうだ。また、言論の自由・表現の自由云々を盾にするならば、書店が新潮社の出版物全てをボイコットするという訴求方法も表現の自由ではないのか。要するに、新潮45の馬鹿げた企画を以て、新潮社の出版物全てのボイコットが起きても、その背景を勘案すれば決して不適切な行為とは言えないだろうし、ましてや「封殺」なんて批判は状況を適切に言い表しているとは言い難い。
紹介したコメント投稿者とのその後のやり取りでも書いたが、新潮社の社長もこのコメント投稿者も、中立の立場のようなつもりで主張をしているようだが、言っているのは結局、「(言葉の)暴力を振るう自由も尊重しましょう」という事でしかない。全然中立でなく、寧ろ不適切な行為の肯定という側面が際立っている。
物事を表面だけで捉えたり、字面だけで捉えるたりすることが、如何に不適切なことなのかが、この2つの件からよく分かる。