マレーシアの同性愛者の女性2人へ、イスラム法に反した罪による鞭打ちの公開処刑が実施されたと、BuzzFeed Japanが「同性愛の罪で逮捕された2人の女性へ下されたのはむち打ち刑だった」という記事で伝えた。
宗教とは一体何のために存在するのだろうか。様々な見解が存在するのだろうが、自然の驚異などへの絶望感を緩和する為や、人間が人間に対して行う理不尽な行為を抑制したり、理不尽な行為を受けた者の救済がその大きな目的なのではないだろうか。言い換えれば、全ての人、少なくともその宗教を信じる人全てを救済する、若しくは幸せをもたらすことがそれぞれの宗教の存在意義ではないのか。と自分は考える。
果たして同性愛を罪とする宗教上の規制は誰かを幸せにするだろうか。自分には、誰かを不幸にすることはあっても、誰かを幸せにすることはないように思える。それとも、そんなしきたりであっても、守らない者・教えに反した者は救済する必要がない、幸せにする対象ではないということなのだろうか。誰かを傷つけたり不幸にしたりするわけではない行為を理由として、考え方の異なる一部の人を排除しようとすることが、宗教によって肯定されることに矛盾を感じてしまう。
BuzzFeed Japanは「セリーナの「ブラックパンサー風」スーツにフランステニス連盟会長が苦言」という記事を9/9に掲載した。先日全米オープンで優勝を果たした大坂 なおみ選手が決勝で対戦した女子テニス界のトップ選手・セリーナ ウィリアムズ選手が、5月の全仏オープンで着用したボディスーツ風のユニフォームについて、フランステニス連盟の会長が「時に度を越していると思うことがある」と述べ、セリーナのスーツを例に挙げて「これ以上は容認できない。試合と場所を尊重しなければならない」と言及したそうだ。テニスやゴルフでは服装に規定があることは自分も知っている。それらのスポーツは貴族のような階級が主に興じる競技だったことに由来しているのかもしれない。しかし、自分の目には、ウィリアムズ選手のボディスーツは運動に適した動きやすそうな格好にしか見えない。「度を越している」とは動きやすさを重視し過ぎということなのだろうか。スポーツで動きやすさを重視するのは当然のことではないのか。
自分には、フランステニス連盟の会長の言っていることは、4/5の投稿でも取り上げた、相撲協会が救護活動の為に土俵に上がった女性に対して「降りてください」とアナウンスし、しかも関係者が「伝統だから」というだけで片付けようとしていたことと、とても似ているように思える。テニスやゴルフなどのスポーツに伝統があることは知っている。しかし伝統だからという理由だけで続けなければならない伝統などないと自分は思う。伝統とは合理性が認められるから続けられていることなのに、伝統であるから続けなければならないというのでは本末転倒だ。合理性があるかないかの判断は時代が変われば当然変化する。合理性の薄れた伝統を「伝統」だからという理由だけで維持しようとすることに一体どんな利点があるだろうか。
「同性愛は教えに反する」という考え方はイスラム教に限った話ではない。現在比較的同性愛に寛容である先進国とされる国で広く信仰されているキリスト教でも、一部に同性愛は教えに反するという考え方をする人達がいるし、キリスト教国でもイスラム教国でもない日本でも、仏教の影響か神道の影響かは定かでないが、同性愛は道徳的によろしくないと考える人が一部にいる。
自分には、このような人達も「宗教的な教え」を、その教えが出来た理由、必要性などを考慮せずにただただ維持することだけを重視し過ぎているように思える。厳しく言えば「妄信」とも思う。宗教を信仰する上でその教えを遵守するということはとても重要な事なのかもしれない。しかし、それが誰かを不幸にする教えだとしたら、そのような教えを遵守することは誰かを傷つけることになる。他者を傷つけてまで教えを遵守することに合理性はあるだろうか。「そのような教えは今後は必要ない」と考え直すことの方が大事なのではないだろうか。
BuzzFeed Japanは「相手が誰であっても愛し合える社会へ インドで下された歴史的判決」という記事で、9/6、インド最高裁判所は「男性、女性または動物と、自然の秩序に反した性交渉を行った者は、終身刑または最大10年の懲役刑、罰金刑となる」インド刑法第377条を廃止することを決定したと伝えている。この法は1860年代の植民地時代に制定されたそうで、ヒンドゥー教的な価値観なのか、当時の宗主国・イギリス的なキリスト教的な感覚で制定されたのかは定かではないが、インドの裁判所が「今後そのような教え・法は必要ない」、言い換えれば時代にそぐわないという判断を示したということだろう。
「同性愛は教えに反する」という宗教的な教えを、個人が遵守することには何も問題ないだろうが、それを他者に強制することには問題があるし、犯罪化して罰することのどこに合理性があるのか。その合理性を明確に説明できる者はいるだろうか。
このように書くと、私が「宗教を軽く見ている」と感じる人もいるかもしれない。しかし、自分はBuzzFeed Japanの「「もっといい治療法があるわよ」という知人から心を守るには」という記事を読んで、
21世紀になって医療技術が発達しても、人間の宗教にすがるような感覚は変わらないようだ。と感じた。ツイッターでこの記事に関する反応を眺めていると、「いい加減なことを無責任に言ってはいけない」というような反応が多いが、自分は、藁をもすがる気持ちでそのいい加減な話を信じてしまう当事者や家族の立場でこのように感じた。科学や現代医療とはかけ離れた話に救いを求めてすがりたくなってしまう感覚は、宗教に救いを求めるのと似ていると思えたのも確かだが、科学や現代医療への信仰心が高ければ、邪教の教えのようなものに惑わされることもないだろうという意味で、宗教のように人の心のケアをする存在の重要性はいつの時代も変わらないと思えた。
勿論、宗教を心の支えにするのは如何なものか?という話ではない。宗教のように心のケアをする存在の重要性は、科学や医療技術がどれだけ発達しても変わらないということ。
法事の際などにお坊さんの説教を聞いていると、心のケアをする医療と似ているといつも思う。人の心の支えとして宗教が重要な存在であることは、どれだけ科学進歩しようが変わらないと思う。しかし、科学的な常識が場合によって覆されるように、例えば昔は真実とされていた天動説が間違いで、地動説が正しいという方向転換が起きたように、宗教的な教えも、実質的には人間が作り出したもので絶対的な存在ではないのだから、 状況に合わせて不備があれば変化させていくべきだと思う。「伝統」だからで維持するだけでは、万人の幸福を実現するという宗教の目的に反してしまうこともあるだろう。