スキップしてメイン コンテンツに移動
 

「人に優しくするのは損じゃない」という声は、届いて欲しい人に届くか


 今朝のMXテレビ・モーニングCROSSには同性愛者であることを公言している弁護士・南 和行さんがコメンテーターとして出演していた。同番組では、その日のコメンテーターの3人がそれぞれテーマを選んで問題提起をしたり、そのテーマへの受け止めを披露したりするオピニオンクロスというコーナーがあるのだが、南さんのオピニオンは新潮45が7月に掲載した杉田氏の差別的な主張や、今月発売の10月号に掲載した「そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」という更に酷い内容の企画を前提にした


「人に優しくするのは損じゃない」という話だった。この件については、このブログで自分も複数回、何がどう不適切なのかを書いたし、そのような視点での主張は既にあちらこちらでされている。南さんが今日披露した視点はそれらとは少し異なり、ザックリ言えば、杉田氏や新潮45の企画に乗った人達のような主張に対して、どのような態度で接するべきなのか、というような視点を含む話だった。


 今日の南さんのオピニオンを見ていて感じたことが2つある。1つは南さんの主張に対する個人的な異論、もう1つはそれを文章化しようとして構成を考えていた時に感じた副作用的な事だ。どちらを説明するにしても、南さんの話した内容を詳しく認識して貰いたいのだが、流石に番組のキャプチャー動画をそのままそっくり掲載する訳にはいかないので、南さんが使ったフリップのスクリーンショットも用いて、要点を文字おこしすることにする。これも、動画の無断投稿同様、無断転載に当たるという指摘があるかもしれないが、自分は引用の範疇だと考える。
 以下番組内でのやり取りの引用で、南 和行さんを南、番組MC・堀 潤さんを堀、別のコメンテーターで東京工業大学准教授/社会学者の西田 亮介さんを西田とする。


:そういうこと(LGBTに関わる問題ということ)で、私もテレビに出ていて、自分が同性愛の弁護士と言っている手前と言ったら変ですが、本当は(新潮45の企画「そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」を)読みたくなかったんですよ。読んだら傷つくだろうな、嫌な思いをするだろうなということで。(イラストフリップに関する話を中略)


:「お前たち(同性愛者)なんて」という言葉が胸に刺さったら嫌だなと思いながら読んだんですけど、読んだら正直ちょっと肩透かしだったんです。「えー!?」てなるかと思ったんですが、その人達が書いているのは「とりあえず嫌い、苦手」っていう事を、もっともらしく色々理屈をつけてあーだこーだ言っていると。しかもそのとりあえず嫌いっていうのが、単純にリベラルとか権利主張する人が嫌いという、いつものネトウヨ論法でしかなかったし、LGBTが特に嫌いとかそういうこともなく、兎に角、何か権利主張する人とか、リベラル・多様性とかいう人が嫌いなんだという事だけで書いているだけだと思えたら、怒りという部分では結構肩透かしだったんです。ただ、中々自分の事を語り難い世の中で、自分の事を語ったり、色々な世の中の歪んでいることを「違うでしょ?」と声を上げた人が、結局小馬鹿にされたり黙らされられるという状況を、僕は凄く残念な気分になりました。


:(新潮45の企画「そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」に寄稿した)小川さん自身は論文の中で、自分はLGBTQの友達もいるし差別しているわけじゃないんだと(している)。ただ「公の場で性に関する話をするもんじゃない」という話をしていたし、プラスして「そうした個々人の生きづらさは政治が解決するものではなくて、自分たちの中に秘めておくべき、政治が介入してはいけないものなんだ」というような趣旨の話をしていたけれども、随所に「これはどういう知識・ファクトに基づいているのかな?」ということも色々あったし、色々課題もあります。


:今回の事で言うと、小川さんらに僕も言いたい事はあるんですよ、「ちょっとあんたなぁ」と。小川さんはそういう言い方をされるんですけど、それは間違いで、小川さんは自分の当たり前が社会の構造であるとか法制度に丁度合致しているから、それを変と思っていないだけ。異性愛者の人は男女間の恋愛とか性愛の延長に結婚制度があるからストンとくるだけで、同性愛の人だからって性行為とかばかり言っているわけじゃない。その先にある家族の形成とか誰と暮らすとか、或いは私生活と公の生活をどのように結んでいくかとかという話をしているのに、(杉田氏や小川氏などは)「理解する気がないんじゃん」というだけの話。



:ただ、そういうことをギャンギャン言ったら、また「ハイハイ、あいつら自分は賢いと思って(勝手な事を)言いやがって」と言われれると思うと、(それも)嫌ですよね? で、それで「あんたなー」と詰め寄ったらこういうことになる。


:「ツブシタレー」みたいな感じで、理屈じゃなくて喧嘩だけするみたいな。僕はそうなるのがすごく嫌だったから、杉田水脈さんが最初に記事を書かれた時も、表立った反対というか、「杉田水脈さんは(議員を)辞めた方がいいんじゃないか?」と言いたい気持ちもあったが、結局そういう事を言っていくと、こういう不毛な果てのない争い(になりそう)ですよね? ツイッターなんかでもこの件に関わらず、色んな事で相手をコテンパンに言う事が目的みたいになってて、「お前がアホじゃ」って言ってみたり「あんたは偽物じゃ」と言ってみたり、ただの罵り合いになる(ことも多い)。

:ただそうなると、(何も)言えなくなりますよね? それも良くないけど沈黙するしかないということに、僕は今回凄いジレンマを感じたんです。もう本当にどうしたらいいんだろう?と思った時に凄い理想論みたいな話になるかもしれないが、やっぱり冷静に、直感的にキャッチ―な言葉だけを言おうと思わない事が大事だと思う。


:(例えばこのイラストの)パンダとブタが(お互いの事を)分からないのは(別の種族なので)当たり前。自分と違う生活感とか、自分と違う状況に置かれた人が何か言った時に、(事前に番組が取り上げたニュースを引用して、例えば)沖縄米軍基地の件について東門 美津子さんが、銀座でアピールした時に「売国奴」と言われてショックを受けたって、なんでそんな事になるんだろう?と。
 

:分からない事は当たり前なんだから「そういう事言ったら傷つくで」と言った時に、「せやったんや、ごめんね」というやり取りでいい(そういうやり取りができればいい)と思う。(別のニュースを引用し)さっきのセクハラのニュースも、一回ちゃん付呼んだ時に「私、そういう呼ばれ方嫌なんですけど」ということが伝わってきたら、「せやったんや」と。前はそれがコミュニケーションとして許されていたから言っていた(ちゃん付で呼んだ)としても、「ごめん」と言えばいいんですよね。それを言わずに、なんかもう「ツブシたれ」って、アイツ許せんってことの応酬になるのが、何でそんなことになるんだろうと。


:そこで一番のテーマになるのが、「人に優しくするのは損やないで」という話ですよね。この新潮45の感想としては、同性愛者として怒りましたというよりも、こんな殺伐としたこと(記事・企画・主張)が、文字メディアで、文芸を掲げていたような出版社から出たということが残念。

西田:(堀 潤さんにコメントを求められて)当事者(の1人である南さん)がそうおっしゃるなら、そうなのかな?とも思うが、僕らだと、小川さん書いたものにせよ杉田さんの発言にせよ、おかしなところが沢山あるので「3点において間違っている」とか言いたくなる。南さんのように優しい方が「損やないで、思いやりないなぁ」と言っても、分かり合えないんだと思うんですよね。だとすると、間違っている人達に対して間違っているときちんと言った方が良いんじゃないか?と思いますが、それはあくまで個人の私見なので、そうなのかなと思って(南さんの話を聞いていた)。

:当事者(この件の場合はLGBTに該当する人)はやはり、渦中に置かれるとしんどい。その周辺にいる余力のある人達が「ちょっとそれおかしいんじゃないの?」と、「俺代わりに言っておくから」と。そういう関係が(必要なのではないか)。西田さん(みたないなタイプ)はバシっと言う、(南さんのようなタイプは)「もう優しくしようや」って言う、そういう関係が広がっていけばいい。

:先週の、MXの「田村 淳の訊きたい放題」にも出させてもらった時もこの話題で、僕は柔らかく言っちゃったんですけど、横にいた鈴木 奈々さんがバーッと(差別的な主張に対して)怒って、「やっぱり自分では言いにくいんだな」と思いました(再確認しました)。


 南さんの話はそんなやり取りだった。南さんはこれまで多くの人が展開してきた、要するにこのやり取りの中で言えば、西田さんのような視点とは異なる、もっと根源的なポイントに焦点を当てて「思いやりをもつことが大切」と、杉田氏の主張や新潮45の企画に苦言を呈している。しかし、それは南さんも言っているように、かなり理想的な話であって到底苦言を呈した相手に理解されるとは思えない。要するに、自分の感覚はとても西田さんに近い。
 小川氏などは9/21の投稿でも触れたように、性的少数者に対する暴言・恫喝とも言える主張を自分がしている事は棚に上げ、いざ自分に批判が向けられると、理解し難い根拠で「暴言・恫喝」と言い出すような人間で、まともな議論が成立するとは中々考え難い。というかそもそも「基本的人権の尊重」という憲法の大原則の1つを軽視するような議員や、そんな議員を擁護するような人達に「思いやり」なんて期待できるだろうか。自分にはそうはとても思えない。
 個人的には彼らの思考や感覚は到底容認できないが、彼らの感覚を変えさせられるとも思っていない。ならば何をするべきかと言えば、何がどう間違っているかを明確に指摘し、これ以上差別や偏見が他の人、特に未成年者に広がらないように最大限の努力をするべきだと考える。勿論、南さんのような視点での批判・指摘に全く意味がないとは思わないし、確実に必要な視点だとは思う。しかし同時に、そのような指摘が差別的な主張を繰り広げる人達の心に刺さるとは思えない。

 南さんのように「思いやりが大切」と説いたところで、南さんの言葉を引用すれば、彼らはもっともらしく色々理屈をつけてあーだこーだ言って、「自分たちに思いやりがないと言われるのは心外だ」と言い始めるだけだろう。それは西田さん的な直球の批判でも同じことだし、南さんの言う通り、それが行き過ぎて単なる罵り合いになることは適切ではないが、南さんの主張は、協調性や波風を立てないことが過度に求められる日本の傾向が反映されているようにも思えた。確かに不必要に対立する必要はないが、不適当な言説はその内淘汰されるというような考えに基づいて、これまで放置してきた結果が現状なのだと自分は強く感じている。対立を恐れるあまり「おかしいことにおかしい」と言ってこなかった結果、あたかも中立を装った攻撃的な主張が横行するようになってはいないだろうか。そう考えると、やはりおかしいことには直球で「おかしいと批判する」ことが必要と言えると思う。
 勿論、堀 潤さんはその両方とも必要と最後を締めくくっていたし、南さんもその見解に理解を示していたので、最終的には自分の考えも、南さんの考えも似たようなものなのだろうが、南さんのオピニオンを聞いていて、見ていて、自分はこのように感じた。

 冒頭でもう1点感じたことがあると書いたが、この投稿が結構長くなったので、それについては明日・9/25の投稿で書くことにする。

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。