9/19の投稿でも書いた、新潮45の「そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」という酷いと言わざるを得ない内容の企画に関連して、アベマTVの番組・AbemaPrimeでは19日の放送で即座に、その企画でコラムを書いた内の1人・小川榮太郎さんを呼んで話を聞いていた。その様子はアベマTVのブログ・AbemaTimesでも「「じっくり文章を読んでくれれば対話点は見つかる」杉田水脈議員"擁護"を「新潮45」に寄稿した小川榮太郎氏が生出演で語ったこと」という見出しで記事化もしている。
自分は記事だけでなく実際に番組も視聴したが、実際に彼がしゃべっているのを目の当たりにすると、活字でそれを読むよりはるかに醜悪さが際立ち、視聴に使っていたタブレットの画面をかち割りたくなるような衝動に駆られた。ハッキリ言って”さん”という敬称を付けることすらしたくない気分だ。杉田氏にしろ小川榮太郎にしろ、勿論他の、新潮45の馬鹿げた企画に論を書いた者全てに言えることだが、異性愛が正常で同性愛は異常という感覚を前提に、無理矢理それを正当化しようとしているとしか言いようがない。現在この国では、憲法に「基本的人権の尊重」「法の下の平等」が規定されているが、どうやら彼らはそのことを知らないようで、同じ国に住む者として恥ずかしいことこの上ない。
新潮45の企画に対しては、既に多くの有識者やメディアがその異様さ、不適切さについて批判を繰り広げている。例えばハフポストは「痴漢とLGBTの権利をなぜ比べるのか。「新潮45」小川榮太郎氏の主張の危険性、専門家が指摘」という記事を掲載し、その中で、精神保健福祉士・社会福祉士の斉藤 章佳さんの見解を紹介している。記事では斎藤さんの、
間違っている論説には、エビデンスなどをしっかりと提示した上で、対話を試みる必要があるという指摘も紹介している。
また、BuzzFeed Japanのエディターである岩永 直子さんは、彼女が「『新潮45』批判を文芸書編集部が繰り返しリツイート 新潮社は「言論統制していない」とコメント」という記事を書いたことなどが根拠なのか、小川榮太郎からそれが暴言や恫喝に当たると名指しされたとツイッターに投稿し、
今後、そのような理不尽な反応にも、冷静かつ適切に対処していくことを表明している。小川榮太郎氏のFB投稿で「暴言」や「恫喝」をした一人として名前をあげられました。どんな理由で私の記事を「暴言」や「恫喝」などと評価なさったのか、この文章ではよくわかりませんが、今後も杉田議員の寄稿に関連して複数記事を出すべく準備中です。少しでも理解を深めていただけたらと願います。 pic.twitter.com/IO2leGzWQg— 岩永直子 Naoko Iwanaga (@nonbeepanda) 2018年9月21日
確かに現代の常識として「目には目を、歯には歯を」のような対応が適当でないことは明らかだし、表現・思想信条の自由を維持する為には、根拠も示さずに一蹴することが好ましいとは言えないことも確かだ。しかし、小川榮太郎は新潮45のコラムでも、AbemaPrimeでの言説でも、性的少数者に対する暴言・恫喝とも言える主張を自分がしている事は棚に上げ、いざ自分に批判が向けられると、理解し難い根拠で「暴言・恫喝」と言い出すような人間で、まともな議論が成立するとは中々考え難い。また、こんなあまりにも馬鹿げた話をいい大人がしていることに対して、子供に言い聞かせるような対応をしなくてはならないのかということにも疑問を感じてしまう。それは民主主義という効率の悪いシステム上ではある程度仕方のない副作用・ジレンマでもあることは分かるが、どうにもこうにもレベルが低すぎて、自分は「仕方ない」で片付ける気にはなれない。
ここで自分が思い出したのは8/28の投稿で取り上げた「元維新・橋本氏の、有田議員への訴え棄却」という話だ。当該裁判の判決の中で、大阪地裁は、
橋下氏はインターネットで、有田氏を非難するにあたり、蔑み、感情的または挑発的な言辞を数年間にわたって繰り返し用いてきたというものというほかはないから、一定の限度で、有田氏から名誉を棄損されるような表現で反論される危険性を引き受けていたものといわねばならないという見解を示している。小川榮太郎・新潮45の馬鹿げた言説についても同じような見解が適応できるのではないだろうか。好ましいとは言えないが、あまりにも偏見や事実誤認に満ちた馬鹿げた主張に対しては、馬鹿げた言説と一蹴してもよいのではないか?と思えてくる。勿論、それは馬鹿げた考えを改めさせるという抜本的な解決には繋がらないだろうが、馬鹿げた話によって傷つけられる側のことを考えると、ある程度一方的に権利を制限するような対応も検討する必要があるのでは?と感じる。
彼らや新潮45、そして更に新潮社も、今回の騒動について、表現の自由や思想信条の自由を根拠として、その主張の正当性を主張しているが、自由には責任が付きものだし、他人を明らかに傷つけたり、権利を侵害するような自由何てそもそも自由の範疇に含まれていない。例えばこれが物理的な暴力なら、誰かの自由を制限しても何等かの対処が行われるが、精神的な暴力だとそれが現実的でないことがとても歯痒い。表現・思想信条の自由と、他人の権利を侵害する言説の排除の両立は、バランス的にも難しいかもしれないが、何か方法を検討しなくてはならない状況になっていると自分は思う。ヘイトスピーチに対する抜本的な対策が必要だと強く感じる。
現在法律上ではヘイトスピーチ=外国人への差別偏見に対する言説という認識のようだが、他の対象への差別偏見についての対応も含めて政治の対応が後手後手ではないのか。所属議員・杉田氏の主張を「人生観もそれぞれ」などと容認するような政党が政権を握っているのだからそれも当然の成り行きなのかもしれないが、当然・仕方ないで済ませられるような話では全くない。