スキップしてメイン コンテンツに移動
 

「おかしいこと」を無視するだけでは、状況の好転は望めない


 BuzzFeed Japanは10/25-28にかけて「『新潮45』問題を古いゲイ3人が考えた」という記事を掲載した。
 新潮45が7月に掲載した自民党・杉田議員の「「LGBT」支援の度が過ぎる」というコラム、その中での「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです」などの差別的な表現に端を発し、これを無理筋で擁護した人達、杉田氏や擁護者への反発をデモで示した者への批判が行われた事などについて、ゲイを公言している北丸雄さん、小倉東さん、永易至文さん(全員50歳以上)が、自分たちが見てきた1970年代以降の同性愛等に纏わるムーブメント等も勘案して論じた座談会を、参加者の1人である永易さんが記事化した全4回のシリーズだ。


 記事の内容は、これまで杉田氏や擁護者らに向けられた大方の批判の内容とそれ程大きく異なることはないが、ベテラン(と言っていいのだろうか?)ゲイならではの視点や、自分が知らない要素も幾つか紹介されており、とても興味深いものだった。
 シリーズの4回目は主に座談会に集まった人から投げかけられた意見・質問等に関する質疑応答なのだが、その中にこんなやり取りがある。

発言者E 対話というと、われわれに身近なのはネット上でのやりとりですが、たいていそれは対話にならず、罵詈雑言の投げつけあいで終わります。ネットの限界は承知のうえで、ネットでの対話を実のあるものにするためのアドバイスはないでしょうか。

小倉 噂話や陰口など、「言説」以下のものにも僕はある種の価値があると思っています。見るにたえない言葉の数々も、どういう背景で、なにを含意して話されたのか、ていねいに読み解くと、見えるものもあると思う。そういう研究にも手をつけたいと思っている。あとは俗にいうメディアリテラシーを磨くことでしょうか。

北丸 ツイッターでは基本的に議論しないことにしてるし、そもそもできないよね。文句つけてくる人でもこりゃ脈があるなと感じた人には返事を返そうと思うけど、ただただ吹っかけるだけの人だなと判断したときは投げちゃう。議論する場じゃない。

永易 私もツイッターは情報収集やお知らせに使うもので、議論をしようとは思いません。ずっとネットで呪詛をぶちまけ続けている人がいますが、それにていねに付き合うことを、「対話」とも「議論」とも思いません。そんな「生産性」のないことはしたくないわ。

自分も過去にこのブログへ「馬鹿げた話にも付き合わなければならない、というジレンマ」という投稿をしている。確かに、特に文字数制限が厳しいツイッターでは、言葉足らずで雑、場合によっては単なる誹謗中傷ような主張が行われる傾向が強く、「対話」にも「議論」にもならないやり取りになりがちだ。また、都合が悪くなると話の主題には触れずに少々論点のズレた話を持ち出し、それを指摘されると今度は「はいはい、お決まりの「話を逸らすな」ね」的な捨て台詞を吐く者もそれなりにいる。北丸さんや、永易さんはそのような、自分が感じたのと同じジレンマへの対処、若しくはネット上のコミュニケーションの中で自分に向けられる誹謗中傷から受けるストレスを如何に緩和するか、のような視点で質問に応えたのだろうと推測する。
 しかしその一方で、二人の見解、特に永易さんの見解について「ネット上の不適切な言説は無視するに限る、それが最も効果的」と言っているように受け止めてしまう人もいるんだろうと感じ、次のようにツイートした。



これもこのブログで自分が何度か書いている話で、不適切な言説の相手をするのは確かに不快だが、無視することでは決して問題は解決しない、正しくない言説を主張する人、誹謗中傷してくる人を無視したり、ブロックしたりミュートしたりしても、その人は結局それらの行為をやめない。ネット以前の社会なら、無視されることによって彼らの居場所は狭められ、自然とそのような主張をやめたかもしれないが、ネットでは検索によって、若しくはSNSが同じ傾向の主張・アカウントを勧めてくることによって、不適切な少数者でも容易に仲間を見つけることができる。だから彼らは無視されてもブロックされてもミュートされても、ネット上では不適切な言動をやめない。また、そのような言説がSNS上で公開されれば少なからず感化される者が現る。ネット黎明期から不適切な言動は無視していればいずれ消えると言われていたが、無視・スルーしてきた結果が今のネットの一部に広がる過激で極端な風潮で、その影響が実社会にも及び始めているというのが自分の見解だ。

 永易さんはこの自分のツイートをコメント付きで次のようにリツイートしてくれた。要するに自分の受け止めをしめしてくれた。


永易さんが敢えて「生産性」という表現を皮肉交じりで用いたのだろうという事は記事を読んだ時点で推測出来たし、前述のように、彼が「無視していればいいんだ」と言っているわけではないことも、ジレンマを前提としてコメントしたことも自分は推測できたし、そのニュアンスは座談会へ参加した聴衆には概ね伝わったのだろうとも思えた。しかし、記事化し文字になると、そして座談会への参加者とは比べものにならない程多くのいろいろなタイプの人が記事を読むだろうと思うと、前段のような懸念が感じられた。自分は永易さんのツイートに対して以下の返信をした。

 仰っている事、ジレンマを感じている事も、記事を読んだ時点で私には分かりましたが、そうは受け取らずに「無視して放置しておけばいいんだ」と思ってしまう人もいるようにも思えました。

 全てのおかしな言説を一人で指摘しつくす事はできないが、見かけたSNS投稿に違和感を覚えたら、議論はせずとも、一言だけでも苦言を呈する事を大勢が心掛けることで、影響を受ける者を減らす事だけは出来るかもしれません。

 苦言を呈すれば、罵倒を返され嫌な思いをすることもあるだろうから、絶対にそうしなければならないという事ではないけれど、一見「生産性」がないと思えるやり取りも別の角度から見れば、少なからず「生産性」があるように思います。

表現の適切・不適切について、勿論明確に不適切・適切な言動はあるが、線引きは決して簡単ではない。つまり、表現の自由や言論の自由との兼ね合いがある。だから包括的な規制、排除はあまり好ましくないし現実的でもない。だから、議論にならないような不適切である懸念の強い相手や主張にも、いちいち苦言を呈し「それはおかしい」と指摘する事、しかも多くの人が自分がおかしいと思ったら「おかしい」と意思表示することが大切ではないのか?と自分は考えている。議論にならなくともおかしさを指摘すれば、少なくとも感化される人だけは減らせるのではないだろうか。

 永易さんの「ただ私はそれに割く時間がないだけです。保守速報の広告はがしのように、効果的なネット言説防衛隊をどなたか組織して活動してくれないかしら…」というコメントを読んで、前述のような思いも踏まえて自分には、
 選挙に投票へ行かないのに「社会が悪い、誰か何とかしてくれないかな」のような事を言う人
と似ていると思えた。
 確かに、不適切な言動・誹謗中傷を無視したり、その手のアカウントをブロックすることは、嫌な思いを不当にさせられることのストレスから逃れる為には効果的で、全否定できるような事ではない。しかし前述のように、目の前に広がる社会は、その社会に属する者一人ひとりが相互に作用して作り上げてきたものでもある。これまでのそれぞれの行いの結果でもある。抜本的な変革を願う気持ちも分からなくもないし、副作用のない(少ない)不適切な言動の包括的な抑制案が編み出される事を望む気持ちは自分にもある。しかし「それに割く時間がない」と言ってしまったら、それではこれまでとほぼ何も変わらず、状況は良くならないだろうし、最悪今より悪くなりさえするかもしれない。前述のように、個人が全ての不適切な言説に反論することはどうやっても不可能だが、個人の出来る限りでいいので、おかしいことに「おかしい」とそれぞれが言い続ければ、少しずつかもしれないが状況が好転するきっかけになるのではないか。と自分は考える。

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。