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批判と中傷を混同してはいけない


 10/28に行われた青森市議選で初当選した山崎翔一氏が、ツイッターの匿名アカウントで差別的な投稿をしていたことが発覚し大きな注目を浴びた(朝日新聞の記事)。記事によれば、彼は
年金暮らしジジイを舐めすぎ
平日の役所窓口で罵声叫んでるのだいたい爺さん
君にそんなエネルギーあるんかい
と投稿していたことについて、友人からの「仕事に疲れて元気がない。年金暮らしのジジイになりたい」という趣旨の投稿に返信する形で書き込んだと釈明し、「年金受給者や高齢者の方々に不快な思いをさせてしまった」と謝意を示したそうだが、個人的には、釈明を聞いても、結局彼は今も何が悪かったのかを理解しているとは思えない。批判・指摘されたのでポーズだけで謝っているように見える。


 彼の差別的な投稿は前述のツイートだけではなかった。他にも、
  • 片腕落として障害者雇用
  • そういえば、デリー行きの電車に乗った時、おかまの物乞い来たな~ 札束めっちゃ持ってたけど
等が指摘を受けている。 また「福沢諭吉「バッカも~ん!ワシが書かれた紙を持って、特定の店に行けばそんなことにはならずに済んだのじゃ~」という、大学生の性的暴行についてのツイートもそれらと一緒に指摘を受けているが、個人的には、このツイートに関しては問題性がよく分からない。ただ他のツイートに関しては強く差別・偏見が強く疑われる内容と言えそうだ。しかもこれらのツイートは数年以上前の、若しくは未成年当時の若気の至りではなく(彼は現在28歳)、どれも今年、しかも8月以降のツイートだ。「年金暮らしジジイ」に関しては市議選当日にツイートしていたようだ。
 毎日新聞は「不適切ツイート 青森市議当選者「思慮のなさの結果」謝罪」という記事で、全てのツイートに対する彼の釈明内容を掲載しているが、それを見ても彼がポーズだけで謝っているように見える、つまり、実際は不適切な行為をしたと思っていないように見えるという彼に対する印象は変わらない。
 記事によれば、彼に辞職の意向はなく、
 批判や失望の声が上がったが、応援しているとの声もあった。周りの声援に応えて、高齢者、年金受給者、障害者、LGBT、性的被害者の方々に、議員活動を通して誠意を持って対応したい。(傷ついた方に)全然配慮がなかったところがあるので、知識を深め、市政へ反映できればいいと思っている。
と述べたそうだ。

 この件で批判の声が上がっている事を踏まえてスマイリーキクチさんは、
とツイートしていた。スマイリーキクチさんは、ネット上で全く関係のない殺人事件の犯人というデマを流され、長期間誹謗中傷を受け続けた(Wikipedia:スマイリーキクチ中傷被害事件)経験を持つお笑い芸人だ。彼のこの主張は決して理解出来ないものではない。前述のようなツイートがあったとしても、「社会から抹殺すべき」というのは明らかに度が過ぎている。例えば山崎氏を「死刑にしろ」なんて言っている人がいるのなら、自分もキクチさんと同じ様に思うだろうし、「青森から出ていけ!」なんてのも言い過ぎだろう。

 しかし「「謝罪だけでは許さない」市議会や関係先に抗議して議員辞職に追い込む」ことが適切ではないという主張には賛同できない。「追い込む」という表現が用いられると攻撃的なイメージを感じるが、追い込むを「求める」に変更すれば大きな問題がある行為・認識とは言えないのではないか。他者、社会的弱者に対しては特に、一般人以上に配慮すべき政治家・議員・役人が、匿名で、しかも選挙当日にもあのようなツイートをしていたのだから、有権者が辞職を望んでも何もおかしくない。彼が実名アカウントであのようにツイートしていたら、それを有権者が知っていたら、彼は当選するだけの票を集められたか疑問である。


 例えば、自分の彼氏や彼女が山崎氏のような行為に及んでいたら、関係を解消するという人は決して少なくはないはずだ。また、子どもの担任教員があのようなツイートを裏でしていたら、多くの親は「この教員はいじめを容認・黙認、最悪加担しかねない」と感じて解任を求めるだろう。少なくとも自分はそうする。前述のように、あのようなツイートを理由に「死刑」とか「地域から追放しろ」なんてのは言い過ぎ・やり過ぎだろうが、抗議して議員辞職を求めるという判断に問題性があるとは思えない。
 キクチさんは「死刑」とか「地域から追放」のようなことを言っている人の事を想定してそのようなツイートをしたのだろうが、適切な批判・抗議まで好ましくないと言っているようにも感じられる表現になってしまっているのは残念だ。

 余談だが「裏アカウント、要するに私的な会話だったのだから目くじらを立てるな」という見解を示す人もいるが、例えば、内輪の酒の席で発した冗談ならそのような話も分からなくはない。しかし裏アカウントであろうが誰でも見られる状態のアカウントでツイートした事は決して内輪の冗談では済まない。また内輪の冗談でだって、そんなことを言う政治家に自分は票を投じたいとは絶対思わない。このブログでは何度も書いているが、内心の自由と表現の自由の範疇は確実に異なるし、表現の自由を主張するなら同時に、行った表現に責任を持つ必要もある。


 今日はアメリカの中間選挙投票日で、今朝のMXテレビ・モーニングクロス でもそれに触れ、トランプ氏の過激な演説なども取り上げていた。また、この日のコメンテーターの一人だった森井 じゅんさんがいじめ問題を取り上げていた事もあり、それを踏まえた視聴者ツイート、
が番組中に画面に表示された。トランプ批判をトランプ叩きと言い換えているのは、スマイリーさんが「抗議して議員辞職を求める」行為を「抗議して議員辞職に追い込む」と表現したのと同様に、トランプ氏への批判が全て不適切な内容であるかのような印象を与える為の表現に見える為、適切とは思えない。また、批判=いじめかのような表現も、いじめという言葉の恣意的な解釈が大いに含まれているように見える。
 かなり短いツイートなので、このように指摘したところで「その解釈は誤解だ。そんな意図はない、トランプ氏への誹謗中傷も少なからずあり、それを指していじめの「部分」があると表現した」という旨の反論が返ってくるだろう。しかし逆に言えば、ツイートの文字数制限にはまだまだ余裕があるのに、なぜ誰もが分かるようにそう表現しないのか。前段で指摘したような意図が実際にあるが、それを指摘された際に言い逃れる為にそのようなツイートをしたと思われても仕方ないのでは?と考える。
 山崎氏の釈明、または他の政治家の失言(実際は失言でなく単なる暴言・妄言)についての「誤解」であるという釈明にも、似たような側面が少なからずある。それについては11/4の投稿で詳しく書いたので、そちらも読んで欲しい。

 今日の投稿で強く言いたかったのは、どんな主張を読む・聞く場合も受けては「批判と中傷の区別はしっかりとつけなくてはなならい」ということだ。また主張する側が、適切な批判にも関わらず、恣意的に解釈し「叩く」とか「追い込む」などと、まるで誹謗中傷かのように言い換えるのも不適切である。

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