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先生は良くて生徒はダメ、では子供は納得しない


 朝日新聞の記事「小中学校にスマホ持参OKへ 大阪府、災害時の連絡用に」によれば、大阪府はこれまで原則禁止だった学校へのスマートフォンの持ち込みを、今年6月に発生した大阪北部地震を踏まえ、来年度から府内の公立小中携帯電話や認めるそうだ。登下校中の災害時などに子どもと保護者の連絡手段になることを重視しての判断らしい。ただ、校内では引き続き使用禁止とするとのことだ。
 記事によると、文部科学省は携帯電話・スマートフォンを「教育活動に直接必要のない物」として、各都道府県の教育委員会に原則禁止とするように通知している(促している)そうだ。その影響が大きいようで、自分の知る限りでも携帯電話・スマートフォンの持ち込み禁止という学校は少なくない。


 記事の趣旨とは少しずれる話ではあるが、朝日新聞の記事を読んで感じたのは、携帯電話・スマートフォンの学校への持ち込みを生徒に禁止するのなら、勿論先生も学校に携帯電話・スマートフォンを持ってこないことが徹底されている、先生が率先して実践しているんだろう、ということだ。勿論皮肉である。文科省が携帯電話・スマートフォンを「教育活動に直接必要のない物」と位置付けるならば、学校は教育活動の場なので教員にとっても必要ないだろうし、 ならば学校に持ってくる必要はないもの、という事になるだろう。
 「教員は勤務時間を終えればプライベート時間になるのだから、そこで用いる為に携帯電話・スマートフォンを学校に持ってきても良いのではないか」と反論する人もいるだろうが、教員が勤務時間を終えた時点でプライベート時間になるならば、生徒の登下校だってプライベート時間だし、授業が終われば学校にいたとしてもそれは生徒のプライベート時間なので、生徒も携帯電話・スマートフォンを学校に持ってきてよい事になるのではないか。子供に対して「先生は良くて生徒はダメ」という基準のルールを説明するのに、そんな根拠で納得してもらえるとは思えない。

 なんでこんな事を思ったのかと言えば、中学生の時の経験を思い出したからだ。最近でも学校にペットボトル飲料を持って行き、熱中症対策の為に学校内や登下校の際に飲む事まで禁止するような学校の方針に合理性はあるのか、などが話題になっているが、自分も中学生の頃、夏の部活動の帰り道に自動販売機でジュースを買って飲んでいたところ、先生にそれを見られ怒られたことがある。何を咎められたのか、それは「学校登下校時の買い食い禁止」に違反するからという事だった。
 その数週間後家族で夕食時に回転寿司に出かけたところ、その先生と同僚の先生が勤務時間を終えて2人で同じ店に来ていた。生徒に「登下校時の買い食い禁止」を押し付けるのに、自分たちは仕事帰りに堂々と買い食いをしているように当時の自分には思えた。先生たちが一旦自宅まで帰ってから、わざわざ学校の近くの回転寿司に戻ってきたわけではない事は誰の目にも明らかだった。例えば、生徒が学校終了後家に帰らずに夜遅くまでコンビニやファーストフード店でたむろしているのなら、咎めるべき理由はあるだろうが、夏の暑い日の部活帰りに喉を潤す為に、自販機で飲み物を買って飲む行為を咎めることに果たして合理性はあるだろうか。そんなことまで禁止するようであれば、先生たちも勤務時間を終えたらどこにも寄らずまっすぐ帰宅し、それから好きなようにプライベート時間を過ごすべきではないだろうか。
 中学生当時のそんな経験から、文科省が促し各都道府県・各学校が規定しているスマートフォン持ち込み禁止に関しても同じ様に感じた。

 9/4の投稿「教科書持ち帰り問題について」でも触れたように、学習指導要領の改訂の影響で教科書が以前より厚く重たくなり、その重さは40年で約2倍になっているそうだ。これを背景に教科書を毎日家学校間を持ち運ばなくてもよいのではないか?という事が話題になり、文科省は「持ち運ばずに学校に置いて帰ることを認めるように」と、各都道府県教委に通知を出した(促した)。
 最近は電子書籍が普及し始め、これまで重くて持ち運ぶことが現実的でなかった量の本、例えば横山光輝さんの三国志全60巻を1つのタブレットに入れて持ち運ぶことが出来るようになり、急に読む時間が出来たのに、重さが理由で次の巻を持っておらず歯痒い思いをする、時間を無駄にしてしまうなんてことが少なくなった。何が言いたいのかと言えば、教科書や資料集を電子書籍化して1台のタブレットにまとめれば、持ち運ぶものの重さは飛躍的に減るし、教科書を忘れる事も大幅に減るだろう。しかし文科省がスマートフォンを「教育活動に直接必要のない物」と位置付けを変えない限り、タブレットが教育現場に導入されることが一般的になる日は到来しなさそうだ

 学校へのスマートフォン持ち込みに関して「買ってもらえない子が可哀そうだから学校に持ってくるべきではない」という人もいる。しかし、買ってもらえない子とスマートフォンを持っている子の間の格差は、学校への持ち込みを禁止しても解消されない。学校に持ってこなくても持っている子同士はスマートフォンを使ってコミュニケーションするし、持っていない子はそれに参加出来ない。学校に持ってこようがこまいが、持ってる子が彼ら同士しか分からない話題を学校で話すこともあるだろうから、持っている子と持っていない子の格差について、「学校に持ってきて良いか否か」に重要性があるとは思えない。

 確かにスマートフォンには娯楽端末としての側面があり、それにハマってしまう子供・生徒もいるだろうが、スマートフォンやタブレット端末は、今やノートと鉛筆に匹敵する文房具でもあり、調べものの際に役立つ百科事典でもあり、学習にも確実に役立つツールである。言い換えれば、筆箱・ノート・教科書という学校や学習での主役ツールの代わりになる、若しくはそれらを強力にサポートする道具でもある。そういう側面を勘案せずに、文科省がスマートフォンを「教育活動に直接必要のない物」と位置付けていることには、強烈な時代錯誤感・大人の身勝手さを感じざるを得ない。スマートフォンの学校への持ち込みを禁止するということは、パソコンを使ってサボる社員がいるからという理由で、職場にパソコンを導入しない、職場へのパソコン持ち込みを禁止するというような行為に他ならない。そんな行為がどれほど馬鹿げているかが分かるのなら、文科省が言っていることがどれほど馬鹿げているかも分かる筈だ。

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