「政府・政権・行政機関・政治が信頼を失うと一体どんなことが起きるか」という見出しを昨日の投稿につけた。昨日の投稿では、政府や行政機関への信頼度が下がると国民は「政府が何を言っても信じられない」ようになり、社会秩序に悪影響が出る、諸外国政府からまともな交渉相手と認知してもらえなくなる、日本に好感を感じる外国人が減るなどの事態に陥ることが予想出来るという方向性で、自分の見解を書いた。
この投稿を書いた後に、また別の影響があることに気付いた。昨日の投稿の導入では「厚労省の勤労統計、ずさんな調査」という共同通信の記事と、厚労省やそれ以外の行政機関が今年露呈した幾つもの不適切事案を根拠とし、
最早政府・行政機関の公表・発表には信憑性を感じられない事態になってしまっていると感じるという自分の現在の所感を示した。
しかし一方で、ハフポストが昨日・12/28に掲載した記事「インフルエンザ患者数、3倍に。12月23日までの1週間と前週を比較した結果」を読んで、この記事が伝えている厚労省のインフルエンザ発生状況に関する調査を無条件に信じている自分がいると思えた。なぜこの厚労省の発表に疑いを感じないのかと言えば、厚労省がインフルエンザの患者数に関して嘘の発表をしたところで、利益を得られる者がいるとは考えにくいからだろう。世の中には虚言癖のある人もいて、その手の人は他人はおろか自分さえ得をしない嘘をつくこともあるが、流石に厚労省、というか行政機関がそんな人だらけとは思えない。
2016年に「すべての政府は嘘をつく」という映画が公開されたが、とても共感できる部分の多い映画だったし、自分の短い人生経験でも、政府・自治体・権力が嘘をつくことは身に染みて分かっている。しかし「すべての政府は嘘をつく」が真だとしても、それは「すべての政府は常に嘘だけを発信する」とイコールではない。政府や行政機関の発表・見解の真偽を見極め、信憑性を吟味することが最も重要で、「常に嘘だけを発信している」と短絡的に断定するのは適切とは思えない。
ただ昨日の投稿でも示したように、2018年は前年・前々年にも増して政権・行政の不誠実な発表・姿勢が相次いだ年だった。昨日の投稿で書いたのは「こんな状況なら政府は常に嘘を発信している」と考え始める人が出てしまうかもしれないという自分の見解も示した。しかし厳密に言えば、「こんな状況なら政府は常に嘘を発信している」と考え始める人が出てしまうのではなく、自分にとって都合のよい発表なら信じ、都合の悪い発表なら信用しない人が増えかねない状況になるかもしれないと言った方が正確かもしれない。
勿論、自分にとって都合のよい発表なら信じ、都合の悪い発表なら信用しない事は不適切だが、発表される内容について吟味し適当なら信じ、不信な点があるなら信じないのは不適切でなく、それを混同されると困るのだが、政府・行政機関がいい加減な発表を頻繁にしたり、物事の恣意的な解釈による見解をしばしば示したりすれば、受け止める側も恣意的な解釈をし始めかねないということだ。
SNSを中心に、政府に批判的な人達にも積極的な政府支持者らにも、既に自分にとって都合のよい発表なら信じ、都合の悪い発表なら信用しない人はいる。しかもそれを背景に過激な言説を厭わない者も、一般人だけでなく有名人と言われるような人達の中にも一定数いる。アメリカではトランプ大統領が過激な発言で国民の分断を煽っている、という指摘があるが、 日本では、字面上は過激でなくても、首相の発言や政府・行政機関の不適切な発表によって、アメリカほどでないにせよ分断が煽られているようにも思える。
マスメディアにはこの状況を反面教師にして欲しい。人間のやることなのである程度は仕方ないのかもしれないが、メディアも信頼性に疑問を感じるような内容、若しくは疑問を感じる視点による記事・報道を書いたりしたりすることがしばしばある。最近自分が気になるのは、興味を惹く為につけられる、内容が分かり難い、内容と乖離した、内容よりも大袈裟な見出しだ。内容に嘘がなかったとしても、その手の見出しに目を惹かれて記事を読むとどこか騙された気分になる。確かにネット記事などはクリック数・PV数を稼がなければビジネス的に成り立たないという背景があることも理解はするが、読み手を騙された気分にさせてしまえば、媒体の信頼性を下げるという副作用が生じることも充分に勘案する必要がある。政府や行政機関に加えて、メディアまでもが信頼性を失ったら、自分にとって都合のよい発表・報道なら信じ、都合の悪い発表・報道なら信用しない人は更に増えかねず、間接的に社会の分断を煽る結果を招くことになりかねない。