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著作権は何の為のもの?


 「自分の曲の利用許諾「拒まれた」 JASRACを提訴」朝日新聞が1/11に掲載した記事の見出しだ。アーティストが自身の楽曲の利用許諾をJASRACに求めたが拒否され、拒否の理由は演奏する場所がJASRACと著作権使用料の支払いについて係争中のライブハウスだからというのはおかしい、という理由でアーティストらがJASRACの対応の不合理を訴えたという話だ。事実関係はこれから明らかにされるだろうから、今のところアーティスト側の主張が全て正しいとは言い切れないが、これ以外にも似たような案件をしばしば耳にする。
 専門家ではないので著作権についてとても詳しいわけではないが、権利者が権利の管理を委託した者に利用許諾を求めなければいけない仕組みというのは、一体何の為の仕組みなのだろう。管理委託先に使用報告する必要はあるかもしれないが、委託された者が使用を拒否できることに合理性を感じられない。つまり、権利者自身が権利を有する著作物を自由に使用できない仕組みのようだが、これは文化の発展や維持に果たして貢献しているのだろうか。


 朝日新聞の記事の件について状況がどうなっているかは定かでないが、レコード会社などと契約を行っている場合、それとの絡みもあるのだろう。例えば、お笑い芸人がマネジメント契約をしている事務所に無断で客先と直で話をつけて仕事を受ける事を、一般的に「闇営業」と言ったりする。アーティストとレコード会社の契約内容によっては、勝手にライブを開いたりすると契約に反するなんて事もあるかもしれない。しかしそれはあくまでもレコード会社との話であって、JASRACは著作権管理団体であり、そのような役割の組織ではない。ただ、アーティストが楽曲の著作権を有していたとしても、その使用権についてレコード会社と貸与とか期限付き譲渡のようなの契約を結んでいれば、JASRACがその権利の侵害に関して、著作権者自身であっても使用を制限できるという話なのかもしれない。

 前段の話はあくまで個人的な想像の範疇で、実際にそうなのかは保証できないし、そのような状況があり得るのかも定かではない。しかしよく耳にする話で、アーティストがよく分からないまま契約を結ばされるという話がある。アーティストは音楽等の専門家であっても、必ずしも著作権に詳しい訳でない。というか寧ろ詳しくない人の方が多いだろう。特に人生経験がまだ充分とは言えない若手の場合、兎に角世に出たいという事の方を優先させて、事務所やレコード会社の言うがままに契約したが、後で確認したら納得のいかない内容だった、なんて事がしばしばあるようだ。
 勿論契約内容をよく確認しない方が悪いという見方もできるだろうが、個人的には内容をよく説明もせずに契約させる方の姿勢にも問題があるのではないか?と思う。自分もこれまでいくつかの会社で働いてきたが、入社時にしっかりと契約書を提示された経験など一度もない。中には請求できる経費についての説明すらない会社もあり、半年後くらいに他の人が請求している事に気付き、かなり損をさせられた経験もある。また、当然休日出勤分の代休を請求できるものだと思っていたら「そんなのはウチでは認めてない」なんて言われた事もある。

 著作権の保護は、著作権者が安心して創作活動に打ち込む為、または新たに創作活動をしようという人達のモチベーションを上げる為には確実に必要だ。しかし現在の著作権に絡む仕組みにはいろいろ歪みも多い。Youtubeの音楽メインではないイベントのライブ中継で、ミニライブを行うアーティストの楽曲が流れた途端、恐らく著作権的に問題ありと機械的に判断されたのだろうが、強制的にライブ放送が中断されるのを何度か見かけたことがある。音楽イベントの中継ならば事前に申請するなどして対応するのだろうが、音楽イベントでない場合は詳しい人間が運営にいない場合も多いだろうし、そこまで中々手が回らないのだろう。しかし、出演するアーティストの楽曲の使用、特に実際の演奏中継が著作権的にアウトというのは中々納得し難い。確かに中継が公式なものかどうかは事前の申請がなければ判断し難いだろうし、効率を考えれば機械的な判断・対応はある程度仕方ないことなのだろうが、このような状況ではノウハウを持つ既得権者に利益が集約されかねないとも思える。それは果たして文化の発展にとって好ましい状況だろうか。もっと柔軟な状況の方が文化全体の発展が望めるのではないか?と自分は感じる。

 1/2の投稿では、TPP発効によって著作権保護期間が延長された事について触れたが、著作権の保護ばかりを厳格化してしまえば、死蔵される著作物が増えてしまう懸念がある為、再評価などの好循環を阻んで逆に文化を衰退させる恐れもある。
 朝日新聞の論壇サイトWEBRONZAは、1/10に「神様から著作権法を一ヵ所だけ変える力を貰ったら」という記事を掲載している。この記事を読むと、現在の著作権の仕組みにはどんな矛盾があるのかが少しだけ見えてくる。この記事を読んでいて次のような思いが浮かんできた。
 どの著作物だって、既存の著作物の影響を少なからず受けているのだから、完全なオリジナルなど存在しない。
勿論、完全なオリジナルでなかったとしても、限りなくオリジナルに近い存在の著作物もあるし、複製・模倣ではないにせよ、限りなく複製に近いイミテーションも存在するだろう。ただ、どこで線を引くかというのは結構重要だ。
 音楽で言えば、曲の構成からなにから全く新しい、既存の楽曲に一切影響を受けずに作られた曲なんてのは全く存在しえないはずだ。しかし、ある程度オリジナリティがあれば新たな著作物として権利が認められる。現代的な音楽の表現手法にリミックスがある。既に存在する楽曲を編曲して、テイストを変えるなど新たに仕立てる表現手法だ。今の著作権の仕組みでは、所謂他人の楽曲をアレンジして演奏するカバー同様、リミックスした楽曲を公にするには元の曲の権利者の許諾が必要になる。一方で、稀にパクリを指摘される楽曲がある。既にある曲に構成が似ている場合にそのような指摘が起きるが、場合によってはたまたま似ただけという結論になることもある。個人的には、このたまたま似ただけとリミックスの差がどこにあるのかよく分からない。リミックスの中には元の曲を分解し過ぎて原型をとどめないものもあり、それは確実にたまたま似た曲よりも原曲感は薄い。しかしリミックスはあくまでもリミックスで許諾が必要になる。しかしたまたま似ている楽曲であれば許諾は必要ない。一応、似ても似つかない曲を有名な曲のリミックスとして発表することで、注目を集める、売るという手法があることも付け加えておく。

 著作権が文化の維持・発展を目的にしているならば、厳しくすればするほどいいということはない。今の状況は既得権者の利益に偏った状況であるように、自分には感じられる。

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