日本での麻疹の流行、妊婦が感染すると胎児に深刻な影響が出る恐れがある、という報道を昨年・2018年は本当によく見かけた。他国では妊婦の日本への渡航に注意を促している場合もあるようだが、当然国内にも妊婦は多く存在しており、流行を防ぐ為にはワクチン接種が重要だという報道も多かった。日経新聞の「はしか「空白の世代」に流行の危険国立感染症研究所 多屋馨子室長に聞く」によると、日本人の18-40歳ぐらいに関しては子どもの頃の予防接種が充分でないそうだ。多くの医師・医療関係者らが、発症を防ぐ・軽症化するには予防接種が最も効果的とし、妊娠してからでは予防接種を受ける事は出来ない為、あらかじめ予防接種を受ける事を勧めている。また流行を防ぐ為に、妊娠の可能性がない男性も予防接種を受ける必要があるとしている。
しかし日本でも一部に、ワクチンに対する不信感を持ち、声高にそれを主張する人達がいる。例えば、この5-6年しばしば話題になる子宮頸ワクチンとその副作用、インフルエンザワクチンとその副作用などの話がある。同じ様に麻疹の予防接種に拒否感を示す人も相応に存在し、そのような傾向のある宗教団体の研修会に参加した人達の間で麻疹の集団感染が発生し、更に2次感染も広がっている事が、中日新聞の記事「はしか拡大止まらず 研修参加者以外にも感染」など多くのメディアで報じられている。
この件を受けてBuzzFeed Japanでは、「ワクチンは人が本来持っている自然な力を活用するもの 津市の麻疹(はしか)集団感染から学ぶ教訓」という記事を掲載している。この記事の背景には、前述の集団感染を起こした宗教団体が、
自然尊重・自然順応の教えに従い、医薬に依存しない健康や、自然農法による安全・安心な食を基にした信仰生活を重んじており、ワクチンを接種していない信徒もいる等としている事がある。 記事では、
ワクチンは最終的に皆さんが本来もっている免疫を利用して、特定の感染症を防ぐものとし、つまり「他の動物同様に元来人間が自然に持っている免疫を、意図的な感染によって引き出してその後の感染を防ぐもの」 と説明している。自分はこの記事を読んで「ワクチンに限らず医療に対する漠然とした不安は、仕組みを正しく理解しようとしないから、理解することを諦めるから生じる事ではないのか。 そんなタイプの人らが果たしてこのような記事を読んでくれるだろうか? 読んで信用するだろうか?」という疑問が湧いた。
当該宗教団体や、似たような発想の人達が言う「自然」とは一体なんだろうか。BuzzFeed Japan は数日前に「遺伝子組換えを巡る9つの誤解【前編】 自然でないものは危険なのか?」「遺伝子組換えを巡る9つの誤解【後編】 世界の状況と日本の新しい制度は?」を掲載しており、その中で遺伝子組み換えに関する誤解・9つの典型例が示されている。個人的には最初の1つ
1.遺伝子組換えは自然ではないから危ない?という話が、それ以降の全ての根底に横たわっていると考える。
○:品種改良は自然なものではなく、「自然=安全」でもない
この記事では、遺伝子組み換え食品が自然でないのであれば、人間が意図的に特定の性質を持つ種子同士だけを掛け合わせて行う品種改良や、接ぎ木、或いは挿し木や取り木などによる食物の生産だって、人間が強く関与しているので決して自然とは言えないが、自然か否かの線引きはどこにあるのか、自然だと安全で自然でないと危険という発想には無理があるのではないか、という疑問を暗に投げかけている。
日本の花・桜・ソメイヨシノは確実に人間が不自然な増やし方をした種だし、いま日本で主に食べられているバナナ・キャベンディッシュも同じだ。バナナにも元々は種があるが、食べにくいという理由等によって、種のない個体を掛け合わせて作り出され、種がないので株分けによって増やした品種がキャベンディッシュだ。それはその所為で種の多様性に乏しい為特定の病原菌に滅法弱い。キャベンディッシュ以前に多く生産されていた品種も同じ理由で絶滅した過去があるし、キャベンディッシュも同じ歴史を辿りかねない。しかし私たちは、自然界には存在し得ないそんないびつな品種のバナナを普通に食べている。
自分は、大きな視点で見れば人間も自然の一部で、人間のすることはどんなことも全て自然だろうし、人間を自然から分けて考えれば、人間のやることは全て自然でない、と思う。勿論どちらの視点も極端だが、自然と人工の線引きはある種宗教的で、明確な線引きなど出来ない。恣意的な線引きによって不安が煽られている、或いは理解を超えたものとして漠然とした不安が生まれるのかもしれないと考える。
これらの2つの話に共通するのは、不安を解消する為に必要な「物事を的確に理解する」という行為を怠り、勝手な想像によって余計に不安を増幅させるという悪循環が生じている恐れだ。
考える事を怠る危険性については、1/23の投稿「Tポイントカード・個人情報提供問題の深刻さ」でも指摘した。この投稿で指摘したのは、「警察が捜査・逮捕したのだから悪人に間違いない」と、警察や検察などの捜査機関等、国家権力側の主張を、適切な検証もせず手放しで信用することの危険性だ。前述の2つの話とは、適切に物事を捉える・考える・理解する姿勢の欠如という点で共通する。
確かに考えることは面倒で、物事を的確に捉えて理解するには相応の努力が必要になる。逆に言えば、安易に何かを信じることはとても楽だ。特定の宗教を否定するつもりはないが、自分が苦しい状況に置かれた時、具体的にどんな行動をすべきかを考えてそれを実行して状況を打開するより、特定の念仏・お経を唱えれば誰でも幸せになれると言う人の言葉にすがり、お経を唱えて状況を打開しようとする方が明らかに楽だ。しかし実際にはお経を唱えただけでは十中八九状況は変わらない。「お経を唱えたら状況が改善した」と言う人がいたとしてもそれは概ね運がよかっただけだろう。お経を唱えたのに状況が改善しないという人も大勢いるはずだ。お経を唱える事は全く無駄と言うつもりはないが、強いて言えば気分が楽になるだけだろう。まともな宗教は実際は「お経を唱えるだけで救われる」とはしていない筈で、お経を唱えて仏や神を信じ、それによって正しい行いを継続して行うようになることで幸せになれる、としているのに、それを恣意的に解釈した人が「信じる者は救われる」と言っているに過ぎないと自分は思っている。
少なくとも日本では思想・信条・信教の自由が憲法によって保障されているので、他人に不利益を与えない範囲であれば、どんな話を信じてもどんなに安易に何かに飛びついても、それは個人の自由だろう。ただ、個人が適切とは言えない話等を信じるのは自由かもしれないが、事実とは言えないような合理性に欠ける話を、あたかも整合性があるかのように他人に示すのは、意図的か否かにかかわらず他人を騙す事にもなりかねず、表現の自由等の範疇を逸脱する恐れがありそうだ。
インターネット以前もそのような怪しい話や、怪しい宗教、怪しい宗教染みた主張をする人というのは一定数存在したが、インターネットの普及によって誰もが広く主張をしやすくなった結果、そのような者らの声も確実に大きくなっている。つまりインターネットやSNSの普及によって、これまで偏見や差別に晒されてきたのに、少数派である為に見過ごされ易かった人達や、不当な扱いを受けていたが適当とは言いがたい一般常識の所為で注目されなかった人達、例えば女性・性的少数者・障害者・いじめやパワハラ、差別・偏見の被害者などが声を上げや易くなったのも事実だが、同時によく考えもせずいい加減な情報を発信する人達も大きな声で主張をし易くなっているのが実情だ。
これまで埋もれてきた人達の主張が顕在化し易くなったのと同時に、適切とは言い難い認識・誤解、場合によっては意図的な差別・偏見の合理性を主張するような者の声まで大きくなっており、それに影響を受ける者も相応に増えているのが今の状況のように思う。ワクチンへの漠然とした不安や、遺伝子組み換え食品への過剰な拒否感、権力の性善性を妄信することなど、充分な理解や情報の吟味に欠けた主張は決して少なくない。ネットやSNSの普及によって発言力を得た有識者や、それを足掛かりに政治家になった者の中にもそのタイプの人は存在しており、今ではネット内に限った状況ではなくなっている。
インターネット以前はそのような者の発言力はそれほど大きくなかったので、自然淘汰される可能性が強かったが、現在は多様性の尊重が重要視されていることもあって、それを恣意的に解釈するという手法で大義名分を掲げ、差別や偏見、合理性を欠いた情報を声高に主張する者も少なくない。今のところこの状況を改善するには、個人個人が合理性に欠ける話を手放しに信用せず、どんな情報も妄信せずに一旦自分の頭で吟味するしかない。多くの人がそれを止めてしまえば、この国の社会はたちまち近代以前の状態に逆戻りしてしまいかねないのではないか。